身体の使い方を丁寧にすることが大事とはいえ、その大元には
好きなことを好きなようにやる!
ということが重要だと思うんです。
絵を描きたかったら、とにもかくにも描けばいいし、
歌いたかったら歌えばいい。
そんな感じですね。
これは、基礎練習といったものでも同じことでして、
基礎と言われるものは、最初に取り組むようなものではないと思うんですよ。
なぜなら、基礎の重要さが分からないから。
例えば、バレエを始めたとしまして、この人は基礎が出来るようになりたいわけではありませんよね?
素敵に踊りたいからですよね?
もちろん、トーシューズは履きこなせないでしょうけれど、それでもなんだかそれっぽいことを、好きなだけやった方がいいんです。
そうしますと、思ったのとは違うなぁ、もう少し上手に踊りたいなぁとなります。
で、少し遡った、基礎というよりもコツみたいなものを知りたいとなり、さらにコツではなく、もう少し土台に近いものの必要性を感じ始めます。
このくらいのところから基礎に手をつけた方が良いと思うんです。
そうしますと、積極的に基礎に取り組めますし、先のことを見据えていますから、取り組み方が違います。
気持ちの問題というよりも、基礎の中身に対する視点、見方が違ってきます。
最初に基礎と向き合っても、決して見えてこないものが見えるわけです。
ただ、教室に通ってしまいますと、なかなかこういった流れでは習えませんね。
一回限りの体験会のようなものでしたら、最初の段階にある技術とは無関係に楽しむ!ということは出来ますけれど、その先の基礎を学ぶというところには行けません。
教室というのは、技術とは無関係に楽しむことの先にある基礎、つまり「その先」のところから学んでもらうところ。
それとですね、基礎が無くても素晴らしいことが出来る人はいます。
バレエのようなクラシカルなものは、難しいでしょうけれど、基礎というのは、そもそも後から生まれたものです。
言葉を見ると分かりますね。
文法が基礎となっているわけではありませんでしょ?
コミュニケーションの道具として喋り言葉があり、それを分析していくと、法則性が見つけられる。それが文法。
ですから、文法に当てはまらない例外のようなものが出てくるのは当然なんです。
基礎というのは、これをやっておくと、その先のところの質が上がりやすいというものであって、基礎から出発しているものはないんです。
となれば、身体の使い方も同じだと思いませんか?
「その先」を見据えずに取り組んでも、それは何が大事かを本当には掴む力を持ち得ない状態での取り組みになります。
勉強のための勉強。エクササイズのためのエクササイズ。
(私がよく言う、それ自体が趣味であれば、エクササイズのためのエクササイズで十分なんですよ。)
ところで、人によっては、身体の使い方の「その先」が運動的なものではなく内面的なものだったりしますね。
生き方としての身体の使い方というわけです。
同じ教室で身体の使い方を学んでいましても、自分と隣の人とでは見据えているものが同じとは限らないですね。
ちなみに私は表現としての身体の使い方もレッスンしていますから、この差は大きいと思います。
身体の使い方にどの程度目を向けるか?
大事なことは、「その先」であり、しかもそれは「楽しさ」「悦び」のためであるはず。
身体の使い方を良くすることは目的ではありません。
そのことを忘れないでいてもらえたらなと思います。