踊りでも歌でも、楽器演奏でも、およそ身体を使ってするものは、全て同じだと思うのですけど、
教える側は、これこれをやってみて下さいであるとか、これこれを出来るようにしていきましょう、ですよね。
で、習う側は、それにトライする、繰り返し行う、となる。
そうやって、少しずつ難しいものを出来るようにしていくわけです。
けれど、その難しさですけれど、どの時点で、どんな内容で、習う側が難しさを感じるかは、分かりませんね。人それぞれ。
言われたものを、すぐに出来てしまうこともあれば、他の人が簡単に出来ているのに、自分だけ出来ないってこともありますね。
当人にとって難しいものの場合、
「どうやったら、それが出来るようになるのか? そこを教えて欲しい。」
と思うこともあるでしょう。
(「あるでしょう」としたのは、そういう思いをどの程度抱くかも、人それぞれだから。)
さて、これ、
教える側は、どこまで教えたらいいと思いますか?
逆に、
習う側は、どこまで教えてもらえるものだと思いますか?
武道系、和物で多い、教えないという指導。ひたすら師匠の真似をする、見て盗む系の学び。
質問すら許されない世界だったりします。
大変ですよね。
とは言いましても、初歩レベルからさまざまな要素を分解して丁寧に教えてくれるレッスンでも、やはり大変さはあります。
ですから、どんなものでも、どこまで教えるか? どこまで教えてもらえるものか? という問題はあるわけです。
いずれにしても、とにかく、習う側は、早く出来るようになりたいですよね?
では、例えば、踊りで、この振り付けを出来るようにしていきましょうであるとか、音楽で、ここのフレーズを出来るようにしていきましょう、などで、その動作が上手く出来ない場合、どうやったらそれが出来るようになるのか? そこを教えて欲しいと思っても、実は、その出来ない原因は、どこまでも遡れてしまうがために、教える側にとっても、習う側にとっても、厄介な問題になってしまうんです。
と言いますのは、一見その動作の難しさとは関係なさそうな、腕を上げる(肩の高さくらいでも)という動作が上手く出来ていないからかもしれないんです。呼吸に問題があるからかもしれない。視線の使い方に問題があるからかもしれない。
けれど、多くの動作練習は、それぞれに習得して欲しいポイントがあるんですね。
腕の上げ方の質が多少悪くても、そのポイントがおおむね出来るようになることが大事ということなんです。
つまり、どんな練習でも、目を瞑る点(ここでは腕の上げ方の質)が同時にあるということなんです。
目を瞑る点を全く作らないで練習をしてもらうとすると、それはまさに完璧、身体の使い方のスペシャリスト、どこをとっても隙がないという動作を目指すということになります。
超上級者の練習ですよね。
まずは、習得して欲しいポイントさえ上手くいけば良いわけです。
(極端な例では、質はどうでもよくて手順・順番さえ覚えればいいといったこともありますね。)
ところが、どうにもポイントを外してしまい上手く出来ない場合、今のたとえのように、腕を上げるという行為に問題があるからかもしれない、呼吸に問題があるからかもしれない、視線の使い方に問題があるからかもしれない、といったことを探る必要が出てきます。何が問題になっているのか、簡単には分からないことが多いんです。
大抵は全てに問題がある。
けれど、その全てを問題にし出すと、キリがない。今やろうとしている動作に対して、より強く影響している悪さ一点だけを探り出したいわけです。
今取り組んでいる動作が出来ないことに対して、どこまで遡れば良いのか?
そもそも、遡る必要があるのか?
単に慣れないだけで、もう少し取り組んだら上手くいくのではないか?
もし、遡って、腕の上げ方を改善しようとすると、腕の上げ方だけで多くの時間が必要となり、本来取り組んでいた動作練習にたどり着けないかもしれないんですよね。
しかも、腕の上げ方を改善する中で、もっと遡って、立ち方の問題が出てくるかもしれない。
そうやって、遡っていくと、一体、いつになったら本来取り組んでもらおうとしていた動作練習に入れるのか?
腕の上げ方にしても、立ち方にしても、どこかに目を瞑る点がないと、先に進めない。寝っ転がるところから始める必要が出てきて、いつまでも立ち上がる練習にすら入れないまま、一生を終えてしまう。
もちろん、こういったことをしていくことが、動きの質を上げていく際、非常に重要でして、その方面にあまり目を向けずにどんどん筋力アップしたりストレッチしたり、負荷の高いトレーニングをしていくことが、世の一般的な考え方になっているわけですが・・・
どこまで遡る必要があるのか?
そこには、教える側の(解剖学、生理学、心理学などの)知識、(目の前の人を)見抜く力、(具体的な方法や言葉の選択などでの)引き出す力、(どこまで出来ていれば良いか?に基づいた)検証する力、などが必要になるでしょうし、
習う側のモチベーションが、どこまでの遡りまでついてこられるか?の問題があります。
ここには、遡らなくても、練習をやり込むことで突破出来るだろうという、選択肢もあるわけです。
さらに個人レッスンなのか?グループレッスンなのか?という、レッスン形式などの問題もあります。
いつまでに、どの程度、出来るようになる必要があるのか?といった問題もあります。
と、長くなりましたけれど、まだまだ続きます。。。
教える側は、出来ることなら、どこまででも遡って教えられる力を持った上で、やめどころを作るのが良いと思います。
あえてこれ以上は教えないようにする、とも言えます。
習う側の学び取る力を養い、その人が自分の道を歩む力を身につけてもらうためです。
逆に、習う側は、基本、そういった遡ったものは(先生自らが教えない限りは)教えてもらえないものだと考えておくべきです。
習得すべきものを教えてもらうことで、習うことの意味は達成しているんです。
それがどうやったら出来るようになるのか?は、自分で探るんです。
歌の先生は歌を教える人であって、発声の基礎を教える人ではないんです。そこはボイストレーナーに教えてもらうことで、発声の下地になる全身の筋力や柔軟性などは、いわゆるトレーナーに教えてもらう。さらにさらに、その下地としてボディワーカーに、動作の質改善をしてもらったり、それ以前に、整体師などの手を借りての骨格調整が必要かもしれない。またこれらのどこかで、内面・心理面を扱う専門家のところで、心理的ブロックを外す必要が出てくるかもしれない。
歌の先生に全てを教えてもらおうというのは、土台無理なんです。
といったように、どの分野の専門家も、あくまでその分野の専門家で、ある程度はその周辺のことも分かるでしょうけれど、本当の専門家には及びません。
ただし、及ばないとはいえ、先の歌でいいますと、もし腹筋の強さが必要だとして、トレーナーの人の方が、歌の先生よりも良いとは必ずしも言えないんですね。トレーナーの人は、歌や発声にとって本当に必要なものは、まず分かりません。なぜ必要か?どう使うのか?が分かりませんと、本当の意味では鍛えられないんです。単に腹筋の筋力アップになるだけです。やはり歌の先生から歌のための腹筋の強さとしてのトレーニング法を教えてもらった方が良いかもしれないんです。
やはり、教える側は、どこまでも遡れるに越したことはない。けれど、それも、歌であれば歌というように、到達点を分かっていた上でのこと。到達点を分からずに、つまり目的地を知らぬままに遡っても、意味はありませんでしょ?
ですから、歌の話でのボイストレーナー、トレーナー、ボディワーカー、整体師などの場合、到達点が分かりませんから、的外れになる可能性もあります。
歌の先生と共同であればいいかもしれませんが、歌の先生自身がある程度遡れていませんと、トレーナーや整体師の行為が良いのかどうか判断がつきません。例えば、歌のための腹筋の強さと、一般的に考える腹筋の強さとでは、内容が違います。そこを分かっていない歌の先生もいます。簡単ではありませんね。
そろそろ終わりしましょう。
教え、教わるというのは、コミュニケーションですから(いわゆる人付き合いという意味ではなく)、相性があります。出会いのタイミングもあります。
お互いの「良い出会いに恵まれた」のために、今回のお話が参考になればと思います。
次回公演は12月13日(金) 大型企画です!!