身体の使い方は柔らかくても、絵を描かせると硬い感じであったり、
絵は上手いのに、字は下手だったり
文章を書かせると饒舌なのに、口下手だったり、
サッカーは上手いのに、ボールを投げるのは下手だったり、
足は速いのに、カナヅチで泳げなかったり、
一見、こちらの能力が高ければ・高まれば、あちらの能力も高いんじゃないの?と思ってしまいますけど、そうでもないことは多いんですよね。
アニメ・漫画で、躍動感のある絵を描けるからといって、必ずしもその本人が躍動感高く動けるかどうかは分かりませんし、動ける必要もない。
ただもちろん、何かを感じ取る力があるからこそ、絵に出来るわけでしょうから、その感覚は必要。(この感覚を求心性の感覚と考えて下さい。)
その際、自分が動けた(これは遠心性の感覚が良いと考えて下さい。)ほうが有利な面もあるでしょうけれど、中途半端に動けてしまいますと、それほど躍動感は出せなくなる可能性があります。むしろ、自分はたいして動けないのだと認識して、頭で理解することに力を注いだほうが上手くいくように思います。
以前CGで描かれた人物や生き物の動きに違和感を覚えるというお話をしたことがあります。
『CGとポーリッシュマイム/重さ』
(ポーリッシュマイムとはアートマイムのことです)
ここで重さが表現出来ていないことを取り上げたわけですが、重さは実際に重ければ表現できるわけではなく、重さを表現するには何が必要か?肝は何か?
に対する答えを持っているかどうか? なんです。
ただ立っている人物を描くにしましても、上手な描き手はきちんと立っている、重さを感じさせる絵になりますし、そうでない描き手の絵では、なんだか宙に浮いているような、転びそうな感じになってしまいます。
これは、重心の位置と荷重箇所、骨格の位置関係といったものが的確かどうか? によります。
日常では普通に立てているにも関わらず、描ける人と描けない人が出てくるわけです。
アニメで人物が歩くシーンとなりますと、これに加えて動きのリズムが重要に。
一般的に人はそれほどスムーズに重心移動は出来ないので(能のような摺り足はこれをやろうとしています)、リズムの不規則性みたいなものを取り入れたほうが(例えば、前足が地面を踏み締める時間を作る)、リアルに見えます。
こういったものは観察と物理的な理解、あるいはモノを使った実験などで分かるようになります。
本人の歩き方とは関係なく、生まれつき車椅子での生活だったとしても、描けるということです。
逆に、本人がいくら歩けても、描く技術や理解がなければ描けませんね。
私のマイムのクラスで、過去に何度かこんなレッスンをしたことがあります。
それは、おもちゃの飛行機・自動車を持っているものとして、自分の手をそれらしく動かすというもの。
こういった感覚が、身体で表現する際の感覚につながってくるからです。
飛行機の操縦をしたことがあるとかないとか、関係ありませんでしょ?
見る側の人も、操縦したことのある人はまずいませんよね。
けれど、
見る側はそれらしい動きかどうか、きちんと分かります。
ということは、動く・動かす側になっても、本当は分かるはずですね。
ですから、後はその本当は分かっていることを、実現する力。
分かっているというのは、感じるということで求心性の感覚。
実現するというのは、運動に変換するという遠心性の感覚。
求心性の感覚は絶対に必要。
ですけど、それがどれだけ高くても、遠心性の感覚が低いと実現は難しい。
表現の世界では、つい求心性の感覚さえ磨けば、良い表現が出来るようになると思われてしまいますけれど、遠心性の感覚に結びつけることが出来なければ、表に出てこない。
「私は本当に感じているんです!」と、訴えることになてしまう。
少しお話が逸れますけれど、
演技の素人を使った素晴らしい映画がありますけれど、あれは監督が遠心性の力を引き出すのが上手いんです。ただし、それは瞬発的なものですから、再現性は低い。
連日公演がある生の舞台では、高い再現性が求められますから、難しくなります。
とはいえ、求心性の感覚を失った見かけだけの遠心性の力で再現性を高めて演じてしまいますと、小慣れたつまらない演技になりますので、注意が必要ですね。
最後に、表現者の方に向けて。
求心性の感覚は誰でもしっかりあると思うんです。そこに深く潜って触れられるかどうか?です。
浅いところで分かった気にならないことが大事。内面の問題ですね。
表現者として磨かなければいけないのは、遠心性の力。
その際、サッカーが上手くなりたいのにピッチングの練習をしても仕方ないように、必要な遠心性の感覚を磨くことが重要です。
何が必要か?
【レッスン情報】
Body,Mind&Spirit
本当の自分の身体は天才だ!
定期個人レッスン