アートや表現という行為には癒しの効果があります。
その癒し効果に対して、意識的か無意識かは人によると思うのですけど、真の癒しになるのか?それとも単なる慰めなのか? というところは大事なのではないかと思うんですね。
私のアートマイムのクラスには、癒しを求めてやってくる人はいないのですけど、ある種の踊りのワークには一定数集まってくるようです。
私の仲間で踊りのワークをしている人は「そうなんですよね・・・」と嘆いていましたし、昔々、私が参加した踊りのワーク(全6回だったかな?)にも、やはり一定数いました。
お会いしことはないのですけど(有名な?)踊りの方も、そういった状況を(旧)ツイッターで嘆いていたりするんです。
なぜ嘆くのか?
癒しを求めてはいけないということではないと思うんです。
それが真の癒しにつながるものではなく、慰めを求めているに過ぎないからなんです。
癒しと慰めは、何が違うのか?
今どきの自己肯定感にも繋がってくる問題だと、私は思っているのですけど、慰めはただひたすら、「いいんだよ」の世界。自分を肯定してくれるもの・人・言葉は、気持ちいいですよね。
本当にひどく弱っているときには、慰めは重要な役割を果たしてくれると思います。まずは安心感ですから。
この慰めに対しまして、癒しには、一種の自己否定が含まれています。この自己否定とは、今現状の表面的な自己の否定。つまり真の自己に出会うことが癒しであり、そのためには今の自分が自分だと思い込んでいる、その表面の自己から焦点をずらす必要があるんです。それが一種の自己否定。
ただし、その表面の自己を必ずしも否定する必要があるわけではないんです。何も破壊することはなくて、その奥にある真の自己に気がつけば、見えればいい。
ですから、癒しとは、自己を肯定してくれる「いいんだよ」という慰めを、同時に持ち得る世界なんです。
一方、慰めには、真の自己がいないんですね。単に表面的な自己だけを扱ってしまい、自己否定がないので、気軽なんです。で、そのような気軽さの分だけ、何も解決してくれませんから、ずっと慰めを求め続けることになる。
分かりやすいですよね。
癒しに慰めが含まれているのは、安心感があるからこそ、その場から離れることが出来るということがあるからです。
ですから、アートや表現のワークに参加するきっかけとして慰めがあるのはいいんですけれど、真に癒しを得るには、慰めから離れる必要があるということなんです。
では、どうしたらその真の癒しというものが得られるのか?
答えは簡単ですね。
冒頭の「アートや表現という行為には癒しの効果があります。」ということ。
アートや表現という行為には癒しの効果があると、たとえ無意識にでも分かっているからこそ、慰め・癒しを求めて参加していてるんですものね。
わざわざ、私が答えを言わなくても、本当は分かっているはずなんです。
表現と真正面から向き合うことが、癒しになるわけです。
それは言い換えますと、癒しすら求めないからこそ、癒しが得られるといことでもあります。
でもまぁ、ここが辛いんですよね。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」みたいなものですものね。
ところで、どうしてアートマイムのクラスには、癒しを求めてやってくる人はいないのか?
これも、答えは簡単でして、現実的な動きの稽古をするからですね。
ある種の踊りやアート、表現は慰めが許されそうな雰囲気がある、言い換えますと、現実を見なくて済みそうなので、敷居が低い。けれど、アートマイムにはそういった慰めがなさそうに見えるんでしょうね。
それでも、面白いことに、エネルギーの通し方を学ぶことが、結果、癒しになっているんです。
なぜなら、エネルギーが通るとは、真の自己と身体が別物ではないと体現できている状態だからです。ですから、瞑想と同じ状態だと驚く人は多い。
クラスにも、「生き方に繋がる」と感じ取れる人が多くいることにも表れていますね。
最後に。
アートや表現という行為に癒しの効果があるのは、真の自己と行為に境がなくなる、真の自己と行為が一体化するからだと思うのです。
癒しの入り口として慰めきっかけも良いと思います。
そこから真摯に表現に向き合っていけますと、癒しを求めていたことをいつの間にか忘れ、気がついたら癒されていた、ということになるのではないでしょうか?
間近です!
アートマイム公演 3月15日(金) 19:30~20:30
今回は新作2本。ぜひ!