構造の力を使えるようになることが、極めて重要。
構造の力とは、骨の位置関係と靭帯や腱や筋膜などによるテンションのかかり具合による力でして、
テントを綺麗に張れている時のようなものですね。
この力が生じていますと、強いけれど柔らかさがある。弾性のある強さになります。
重さと軽さが同時にあるような、
ちょっと理解が追いつかない感じでもあります。
で、例えば、何らかの施術的なものを受けたり、ちょっと特殊なエクササイズをしたりして、
その結果、本人は無意識にも関わらず構造の力を発揮できてしまうということがあるかと思います。
けれど、それはあくまで一時的なものなんです。
どれくらい効力が続くかは、それぞれだとは思いますけれど、いずれにしてもそれほど長く続くものではないんですよね。
それまでの身体の使い方のクセで、元の身体に戻ってしまいます。
構造の力がどんなものかを体験した後、どう身につけていくか?
漠然と同じような体験を繰り返していくのでは、あまりに効率が悪いと思うんです。
感覚重視では難しいということ。
感覚は重要ですけれど、感覚頼りですと、そもそもそれまでの感覚が悪かった故に、構造の力を使えていなかったわけですから、その感覚に頼りましても、無意識に道が逸れてしまうと思うんですね。
やはり理解が必要なんです。
感覚を補うための理解です。
感覚と理解って、相性の悪いところがありまして、気をつけませんと感覚を誤魔化しかねません。
理解、つまり言葉の世界が、感覚、身体の世界を見ているようで見ていない状態にしてしまうんですよね。
分かった気になってしまうという恐ろしいことが起きやすいわけです。
構造の力と言いますのは、ある意味、本能的なものだと思うんです。
野生的と言ってもいいかもしれません。
自然界の生き物は、当たり前にこの力を使っているわけでして、おそらく人間だけが使えなくなってしまっているんだと思うんですね。
で、意識的にこの力を学ぶ必要があるわけなんですけど、この意識的というのがクセモノというわけですね。
先ほど、感覚を補うための理解が必要と言いましたように、まずはともあれ良い感覚を体験することが先決。意識的に学ぶということが、理屈先行になってしまいますと、評論家のようになってしまいかねません。
で、一般的には良い感覚を体験すること自体が難しく、むしろ良い感覚を得ることを目的として、長い期間・年月をかけて練習する感じなんです。
けれど、良い感覚はもっと簡単に体験できるものでして、私の単発のワークショップでもそういったことを提供していますし、定期クラスでもそこをベースにやっていっているんです。
それでも、どの程度身につくかは人それぞれ。
そこには、理解の差が大きく関わってくるんですよね。
良い感覚にだけ目が行ってしまいますと、それを再現しようとして徐々にずれていってしまうんです。
理解がありますと、結果としてその状態になるという形で学んでいけますから、ズレが起きづらいんですね。
では、理解って何?になるのですけど、基本的には解剖学的な見方になります。
ただし、細か過ぎますと感覚を補うための理解ではなくなるので、解剖学的なイメージで理解するのが良いかと。
なんだか理解とは?に対する回答がスッキリしない感じかと思いますけれど、理解の仕方はまさに自分自身の問題ということでして、例えば、天才的な人の言うことが訳が分からないのは、その人の理解の仕方を話しているからであり、他の誰かと共有できるものではないから。
良い感覚を体験することは、機会さえ恵まれれば、それほど難しいものではないのですけど、理解の仕方にはその人自身が強く現れます。
良い感覚の再現性がいつも低いなぁと感じている人は、理解の仕方に目を向けてみてはどうでしょうか?
スケジュールは変則的でも大丈夫です。内容も含め、お気軽にご相談を。
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