どういう状態が死なのか?といいますと、
生きている側から見ますと、生きていないということで、
動かない
反応がない
酸素・栄養を吸収消化するなどしての、エネルギー変換ができない
といったところでしょうか?
全てが「止まる」という感じですね。
で、この止まるということを、波動運動で考えてみますと、
波の動きといいますのは動きの方向が変わる時、一見あるいは一瞬止まったようになりますでしょ?
例えば、ボールを上に投げますと、上で一瞬止まったようになってから落ちてくるようなものです。
上から下、下から上、というように動きの向きが正反対に変わるわけですから、
動きのエネルギーがその変換点ではゼロになりますものね。
けれど、この「ゼロ」、ゼロではありませんでしょ?
あくまで一見ゼロというだけで、むしろエネルギーは充満していますよね。
そう、これから飛び立とうとするようなエネルギー。
ジェットコースターの登り坂を登りきったところでの、あの「くるぞ~~~ぉっ!」といったエネルギー。
あの一見止まってみえる時点が死だと考えますと、
死は何か通過点でしかなく、
それは今までの動きの終わりであると同時に、次の違う方向への動きの始まりでもあるわけです。
一見ゼロで、けれど実はエネルギーに満ちた状態。
で、生きている側から見ますと「他人の死」といいますのは、その通過点に達したときのことをいうのかもしれませんけれど、
「自分の死」といいますのは、果たしてどこにあるんでしょうね?
次の人生(?)が始まっているのかもしれませんよね。
今までの人生より楽しいのか、酷いのか? それは分かりませんけれど・・・
生死を「存在の有る無し」で考えますと、
確かに生きている側からは、一旦ゼロを通って別の方向へ動き出した他人は見えませんから、無いように思えますけれど、
自分のこととなりますと、方向を変えただけですから、無いということにはなりませんよね。
自分が無いということは無い。
と、つまり自分の死というものは無い。
もし、死が方向の変換ではなく、本当に無くなるということでしたら、自分が無い・・・
自分の死を知る自分が無いわけですから、やはり自分の死というのは自分にとっては無い。
どこまでいきましても、自分の死は無いようですね。
ところで、方向転換の人生が始まるのだとしますと、
それまでのいわゆる現世の人たちとは、みんなお別れになってしまいますね。
寂しいですけれど、単身どこか知らない遠いところへのお引っ越しと考えますと、心機一転、ある意味では楽しさもあるような・・・
そんな感じで私たちは「フォギャァァ~ァ」と生まれて来たのかもしれませんね。
生まれる前の自分を自分とは意識できていないとは思うんですけどね。
つまり、ゼロ地点を通り、方向転換をした時点で、
それまで自分を自分と意識していた自分がいなくなるのか?
それともその自分はいるけれど、自分を自分と意識できないのか?
それは全く分かりませんけれど、いずれにしましても、
ある世で生きている自分は、その前も後もなく、
ただこの自分を自分と意識することしかできないわけで、
後の自分も前の自分も、その意味では他人。
自分が他人になるのが死なのかしらね???