良い動きになっているときは手応えがない。
武道系のものではよく耳にする言葉ですね。
相手を押すでも投げるでも、上手くいっているときほど、手応えがない。
自分は何もしていないのに、相手が勝手に跳んでいってしまうみたいな感じです。
では、これ、指導者は本当に手応えがないのでしょうか?
ないとしますと、どうやって再現しているのでしょうか?
普通の人は、その良い動きが1回2回出来たからといって、何度でも自由に再現出来るわけではないですよね?
何しろ手応えがないわけですから、何を頼りに動けば良いのか?ですものね。
一般的には、この手応えのなさの再現度を高めるために、(そもそもは手応えのない良い動作を導き出すために)「力を抜きなさい」となります。
ですから、力を抜くことでの成功体験を味わいますと、これか!と思い、力を抜くことへの意識がさらに強まります。
それで、さらに上手くいく場合もあれば、ダメな場合もある。
さらに上手くいって、そのまま身についてしまえば、それはそれでいいですけど、そうなる人は少ないと思うんです。
手応えのないものの再現性を高めるのは、簡単ではないですよね。
ところで、私は普段の指導で、あまり力を抜きなさいみたいなことは言わないんです。
もちろん、いくらかは口にしますけれど、キーワードにはなっていないんですね。
(あくまでエネルギーを通すことが重要なので)
なぜか?
それは、力を抜くことで上手くいったとき、あるいは手応えのないのが良かったというとき、それは、これまで知覚できていなかったところが働いているからであって、力を抜くことはキッカケにすぎないからなんです。キッカケです。
これまで機能していなかったところが、働いたからこそ、良い動きになっている。けれど、その機能を知覚出来ていないので、上手くいっている理由が分からないんです。そこに、力を抜きなさいだけでは、再現性が低いと思うんです。
手応えを感じられないというのも、同じことですね。
これまで機能していなかったところが働いたにもかかわらず、その機能を知覚出来ていないがゆえに、手応えを感じられないわけです。
何もしていないのではなく、知覚出来ていないことが、身体に起きているんです。
上手くいったりいかなかったりと再現性が低かったり、徐々に元に戻ってしまったりするのは、知覚出来ていないことが、根本原因なんです。
一度上手くいって、そのまま上手くなってしまう人は、頭ではよく分かっていなくても、身体がその知覚をはっきりと認識しているのだと思います。
言い換えますと、その働いてくれた機能を知覚出来れば、手応えを感じられるんです。
そうしますと、再現性を高められるんです。
ただ、一度上手くいって、そのまま上手くなってしまう、そういったセンスの良い人は別としまして、そうでない人は、何度も何度も指導者の手解きで良い動きを味わわせてもらうことで、必要な知覚を身体に認識させていく必要があるわけで、自分では稽古のしようもなく、当然かなりの長い時間を要しますよね。年単位。下手をしますと、一生分からないまま。
そこで大切なのが、頭でその知覚を認識することなんです。
とは言いましても、自分の力だけで認識するためには、日頃から身体を繊細に扱うことをしておく必要がありますので、私が指導する場合には、まず自分の身体を観察をしてもらうんです。
それをしているとき、自分のお腹はどんな感じか? 力が入るのか? 変わらないのか? 抜けるのか? などなど。
多くの人は自分の身体を観察する習慣がないので、変化に気がつきづらいわけですけど、観察する部位を絞ることで、変化を感じ取れるようになります。
あるいは、私のお腹を触ってもらったりして、変化を感じ取ってもらいます。
どういった変化であるのか?見当がつきますと、自分の変化にも判断がつきやすくなります。
その上で、あらためて自分のお腹に触れながら、変化を観察してもらいますと、より分かりやすくなります。
もちろん、言葉でのやり取りもしながら、起こり得る変化に対して意識的に目を向けてもらうんです。
この際、ひとつ気をつけないといけないことがあります。
それは、例えば、お腹に力が入るのだと分かったとしましても、お腹に力を入れるわけではないんです。それをしようとした時、お腹に力が入るかどうかを確認するんです。あくまで、結果的にお腹に力が入るかどうか?なんです。
お腹に力が入らないようであれば、やっていることが違うということですから、別の意識でやってみるようにするんです。
こうしていきますと、自分が何をしたらいいのかが分かってきますね。
(ですから、何を意識すると良いのかは、人それぞれ。)
つまり、機能の再現が可能になる!
そうしますと、当然、知覚されるわけですから、手応えを感じます。
(例えば、お腹の力を感じられます。)
その手応えは、良い動きができる前に考えていた手応えではありません。
新しい感覚としての手応えです。
知覚出来ていなかったときには、感じられなかったものが、はっきりと感じられているという手応えですね。
自分の動作感覚で動いていたのでは、いつまでも良い動きにはなりません。
今回のお話のように、良い動きとしての手応えのない動きは、自分の動作感覚を基にしていたのでは、いつまで経っても手応えのない動きでしかありません。
良い動きの動作感覚へと書き換えていけるといいですね。
最後に。
くれぐれも注意して下さい。知覚は単に手応えに過ぎませんから、知覚の再現ではなく、機能の再現です。