オーガニック・アートマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

2006/06/27 Tue 私の自由って・・・

自分が自分であるということが、どうして言えるのか?
自分というものが、もともとあって、何かをしていくのか?
何もないところから、何かをしていくことで、自分ができてくるのか?

自分とは何か?
結局、自分以外のものとの比較と言いますか、相対的にしか規定できないわけで、このことは、つい最近のコラムで書きましたけど、自分というものが、相対的にしか存在しないということは、言い換えますと、絶対的な自分は存在しない。

えぇっ!?
ってことは、自分が自分であるなんて、言えない???
肉体的には存在しても、相対する他者が変われば、自分も変わるわけですから、さっきの自分と、今の自分は同じではない。どこに連続性を求めればいいんでしょう?

自分がいない以上、自分が何かをしていくわけではなく、何かしらしたことが、自分を規定する。つまり、何かをやった後で、「ああ、自分はこういう人間なんだ」と思い、自分がどういう人間であるかを、確認する。

でも、その「こういう人間」も、次の行為によって変化し、場合によっては、まるで正反対の「こういう人間」にだって、なってしまう。

あららぁ・・・
これでは、自分が何だか分からず、自分の存在が信じられず、落ち着いて生活できないではありませんか。
いやいや、自分のことに限らず、ひとのことだって、同じように何だか分かりませんし、その人の何を信じていいのか分からなくなってしまいますよ。。。

で、安心したいがために、過去のしてきたことを、「自分」とか「その人」と規定して、これからすることの判断基準にするんですね。そうすれば、さっきの自分と今の、これからの自分とに連続性が保てますものね。
「その人」のすること、考えることも、予想がつきますから、安心しておつき合いできますしね。

こうして、自分を、他人を規定し、縛り付け、安全をキープする。
この安全地帯から、自分がはみ出すことは、当然恐いですし、他人がはみ出しますと、「えっ!?まさか、あの人が・・・」とか、「裏切られた」とかってことになるんでしょう。

あぁ・・・こうして、自分の、他人の自由を奪い、安心を手に入れ、生きていくんですね。