表現というのは、何のためにするのかといいますと、誰か自分以外の人に、何かを伝えようとするためですよね。そうでないなら、第3者に向けて行なう必要など、全くありませんもの。自分自身の中で完結すればいいんです。
意味が無いものだって、その意味の無さを伝えたいと思うから、表現しようとするんでしょうし、それはいろいろだと思うんです。
ここで何が問題かといいますと、何をどう表現しようと、一番重要なことは、受け手あってのこと、ということ。
それは何も、受け手に迎合するとか、そういったことではなく、受け手が「受け身」であってはいけない、「受け身」にさせてはいけない、ということなんです。
当たり前と言えば、当たり前ですけど、現実問題としてはどうでしょう?
受け身にさせないために、表現者の側が一生懸命、何らかの働きかけをするばかりではないでしょうか?一言でいえば、赤ちゃんをあやすような。
それは果たして、受け手を受け身にさせていないんでしょうか?
表現者にとって、おそらく最も望むことは、受け手が積極的に向かって来てくれることだと思うんです。表現したものを、掴んでくれることだと思うんです。
いや、本当は、掴む必要はないんですけど、とにかく掴みたいと思ってくれること、このことが最も大切なことだ、と。
で、掴みたいと思わせるのに、してはいけないことは、表現し過ぎること。
表現しようとすればする程、分かりやすくすればする程、受け手の心は離れていってしまう。一見、受け手が近付いて来てくれているようだとしても、実は心には何も残らない。
まあ、心に何も残っていないということに、その受け手が気が付いていないことが多いんですけど・・・
まあ、それはさておき、表現者はとりやすいボールを投げるのではなく、とりたい、受けてみたいとおもわせるボールを投げなくてはいけない。
単純にボールが速いとか、よく曲がるとか、そんなことでなく、ただのキャッチボールの球で、そういう気にさせてしまう、そんなボールを。
と、言葉で言いますと、なんだか分かったような気になりますけど、実践となりますと、何とも微妙なところでして、どこかにどうしても、囚われがあったり、不安があったり。。。はぁ~
まずは、14~16日の汐留でのウォーキング・パフォーマンスで、多少なりとも実践出来れば、と思っています。