形を習うことは、簡単です。型でも同じです。
と、こんなこと書きますと、反発されてしまうかしら?
ここでの形や型といいますのは、まあ、とりあえずのポジションの作り方、という段階でのことです。
マイムに限らず、ヨガでも、空手でも、踊りでも、何でも、ある程度やっていますと、それなりの特徴ある形というのは、身に付いてきますでしょ。もちろん、形を教わっていればの、お話ですけど。
で、この形をうまく組み合わせていきますと、かなりそれっぽく、やってる人~って感じになりますよね。
ところが、最初のうちは、これでいいんですけど、ある段階からは、やはり本人も周囲も、物足りなさを感じてくると思うんです。
それで、もっとたくさん練習したり、他のものを習ってみたり・・・
けれど、一番重要なのは、最初に身に付けたと思われる形(型)が、
何故その形なのか?
を、身体が理解することだと思うんです。
言葉を変えますと、その形の質について考える。その形に生命を与える。
上手になる、というのとはちょっと違いますよ。
上手と言ってしまいますと、どこか、形の外側が強調されてしまいますからね。決して、形を整えることでは、ありません。
このあたりのことは、よほど注意しませんと、ただただ上手になっていってしまいます。
で、身体が理解する、ということですけど、一般的には、このことをあまり教えてはもらえません。
教える側が、どこまで本当に、身体で理解しているか?という問題があります。
知識としてではなく、体得しているかどうか、ということですね。
もうひとつ、身体が理解していたとしまして、その身体の理解を、どこまで言葉にできるか?言葉でなくても、どんな方法で伝えるか?を、教える側が考えているかどうかという問題があります。
教える側が、形の意味を、頭で理解しているだけでしたら、教わる側は、自分で本でも読んでいるのと、かわりませんよね。
と、教える側が、身体で理解していましても、その身体での理解を、頭で認識していてくれませんと、教える際に、ただ、「こうやるんだ!よく見ろ!」といった感じになってしまいます。(まあ、これはこれで、重要ではあります・・・教わる側が感じ取り、盗もうという気持ちがありませんと、何も身に付きませんからね。)
生命の無い形は、教えるのも、教わるのも、簡単です。
ですけど、所詮、生命の無い形です。
自分の生命に響くはずもありません。いわんや、他人の生命を響かせるなんて・・・
形は、目に見えないところに大事なものがあり、そのに見えないところを大事にしますと、形が上手というのではなく、美しくなるんです。
「形から入り、形を超え、形に戻る」
といったところかしら?