今回は少し、マイムの悪口です。
先日行なわれていました、『パントマイムウィーク』という公演のパンフレットに、今は亡き並木孝雄の「パントマイム考」という文章が紹介されていました。
一部を紹介させていただきます。(今では差別用語となるものがありますけど、原文のまま掲載させていただきます。)
ジャン・ルイ・バローは、パントマイムを古代パントマイム術と、近代パントマイムのふたつに分け、前者は、(おしの演技)であり、後者を(沈黙の演技)であるとしました。
即ち前者は、おしの人間がするように、言葉をさしはさむことなしに、身振りによって言葉の代わりをつとめさせる。
これは大衆から愛好されて、今日に至っているが、所詮二流品である。
チャップリンのパントマイムは、その中で最も高度なものといえよう。
それに対して後者の(沈黙の演技)は、行動そのものがあるだけで、言葉の代弁者としての身振りがあってはいけない。
もし(行動)に付け加えるべきものがあるとしたら、それは詩的な身振りとでもいったものである。
と、ジャン・ルイ・バローが言っているとのこと。
そこで、並木氏は
マルセル・マルソーは、ビップという人物を創造して、最も大衆的なスタイルを通し、叙情的な身振りによる詩をねらっています。
マルソーは特に、バレエや現代舞踏のパントマイム化と異なって、演技の時間的規定を音楽に頼らずに、マイムの内的リズムを確立したことに、特色があり、その点では、チャップリンと軌を一にするといえるでしょう。
と述べていました。
(長くなりました~~~)
「演技の時間的規定」やら「内的リズム」なんて言葉が出て来ますと、それだけで、ん?
となってしまうかもしれませんけど、
要するに、踊りのように、音楽によって語るのではなく、演技によって語るということでしょう。
そういう意味で、マルソーはチャップリンと同じ(おしの演技)即ち、古代パントマイムだと。
さてさて、「パントマイム考」の紹介はこれくらいにしておきましょうか。
ここで、別に、古代が悪く、近代が良いということではなく、今現在、私たちが目にしたり、イメージするパントマイムは、ほぼ間違いなく、古代パントマイムということですね。
あくまで、言葉の代わりとしての身振り手振り。
分かりやすく(本当は、かなり分かりづらいと思うんですけど・・・またそれは、別の機会に)、とっつきやすい。
そういった方向に、どんどん特化しますから、パントマイムの演技が、俳優としてのそれではなく、タレントとしての、ということになってきます。
まあ、ここでも、俳優が良くて、タレントが悪いというこではないんですけど・・・とにかく違う、ということです。
私自身のことでいきますと、大道芸用の『ウィッチ・クラウン』は古代よりですね。それに対して、先日のソロ公演は、完全に近代ですね。
で、言われましたもの。
「ソロ公演のは、パントマイムって感じじゃなかった。パントマイムって言うより、表現って感じだった。」って。
その通りですね。
沈黙の演技での身振りは、ジャン・ルイ・バローが言うところの、言葉の代弁ではなく、詩ですから。
けれど、どちらもパントマイム。
パントマイム・・・偏りすぎている・・・