オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

パントマイムって何???

パントマイムって何???


これは、やっている側にも観る側にも共通した「?」なんですよねぇ。。。


一般的にはパントマイムといいますと、
「カベ」や「カバンの固定」といったテクニックを使った笑いの要素のある”芸”
といったところかと思います。
それも大抵、大道芸風ですよね。


(パントマイムをやっていますと、ジャグリングや手品に風船での動物作りも出来る
と思われることが多いのですけど、それは大道芸でそういう人が多いというだけで、
全く関係ないんですよ。)


ところが舞台で行われているパントマイムを観に行きますと
(舞台でパントマイムをやっているということすら、えっ!?かもしれませんけど・・・)、
予想に反してストーリーを演じるタイプのものが多く、
以外に「カベ」や「カバンの固定」といったテクニックがあまり出てこなかったり、
笑いの要素が全くなかったりします。


しかも、パントマイムって喋らないものと思っていますと、
これまた見事に裏切られたりします。


ですから、5組くらいのマイマーが出演していたとして、
マイムらしいのは1組だけということもありますし、
5組全てがマイムらしいということは”まれ”だったりします。



観る側は本当に「パントマイムって何???」ですよね。
で、やる側も実はパントマイムって何だろう?って深く考えずにやっていたりするんですね。



JIDAIもパントマイムが何かということを、うまくひと言では言えず、悶々としていまして、
もう10年以上前でしょうか、仲間にマイムは「書」なんじゃないかな?
と言ったりしていたんですよね。


ただ、これは他に例えているだけで、分ったような分らないようなという感じですよね。



それが先日、思い当たった言葉がありまして、それは


「マイムはアイデンティフィケーションである。」


なんです。



”アイデンティフィケーション”というのは、同一化ということなんですけど、
もう少し分りやすく言いますと、「それと同じになる」ということです。


カベならカベになり、水なら水になる・・・
それはカベを手の平で触っているかのようにして、カベの存在を説明するのではなく、
自分の身体の中にカベが入ってくるといいますか、
自分がカベとして存在するということなんです。


水の場合ですと、ちょっと伝えるのが難しいのですけど、
水の振りをするのではなく、やはり自分の身体が水そのものになるということなんです。



これは感情表現でも同じ事でして、いつも言っていることではありますけれど、
怒りや喜びを表すのではなく、怒りそのもの、喜びそのもになることなんですね。
別の言い方をしますと、
自分が怒ったり喜んだりするのでなく、
怒りや喜びの中に自分がいるという状態なんです。



つまり、
物事が自分の外にあるのではなく、
全て自分の中にあり、且つ、物事の中に自分がいる
ということなんですね。



ですから、「カベ」をやっている際には手の平だけでなく、
足の小指までカベになっていなくてはいけないわけで、
怒りの時もそれは同じ。
膝ですら怒りの中にいなくてはいけないんです。


とまぁ、そんなことでポーリッシュ(ポーランド人間国宝ステファンの)マイムに始まった
私たちのマイムには
「オーガニック・・・全体の繋がり、生命」
という言葉を冠にしているんです。



パントマイムという言葉は古代ギリシャ語の「全てを真似る」が語源だそうですけど、
その当時の真似るということが、今お話した
アイデンティフィケーションであるかどうかは怪しいところですけれど
(説明的、ものまね的なことかと思いますので)、
やはり「全てを真似る」のようなことではあるのだと思います。



パントマイムは瞬間、瞬間にそのものでなくてはいけないわけで、
それは例えば、風を表現するのではなく、風であることであり、
目でモノを見るのではなく、モノを見る身体であることなんです。


そしてこれらのことは、決して抽象的なイメージといったことではなく、具体的なこと。



さてさて、こんなパントマイム論に共感して下さる方がいらっしゃれば幸いです。






マイムから心と身体の平和を  http://www.geocities.jp/mime_jidai/

オーガニックな(生きた)カラダに  http://jidai.mond.jp/