少し前に、
「マイムとはアイデンティフィケーション(同一化)である」
というお話をしました。
アイデンティフィケーションはマイム特有のことではなく、
ダンスでも芝居でもどこかしらこういった要素は出てきます。
随分前になりますけれど、ダンスでもなんでも優れたものは、
例えばダンスという形でマイムをしていると私には思えるということをお話したんですけど、
覚えていらっしゃいます?
一方、
マイムの場合はアイデンティフィケーションが土台でありまして、
そこにダンスや芝居などの要素が取り込まれる場合もあるのだと思うんです。
ですから、
踊りとしてマイムをすることや、お芝居としてマイムをすることや、
もちろん、コメディーとしてのマイムも、
マイム本来のあり方ではないと私は思っているんです。
(この場合の「お芝居として」といいますのは、演劇的という意味合いではなく、
セリフで意味を伝えることを前提とした演技といったような意味です。)
と言いますか、そうでなければ、
マイムって何???になってしまうわけで、
それこそ単なる「カベ」や「カバンの固定」といった、
テクニックやジェスチャーに過ぎなくなってしまいます。
喋らずにジェスチャーを多用しながら、
そんなテクニックを使うことがマイムだとなってしまいます。
そんなことになってしまいますと、パントマイムというものが、
ダンスと謳ってしまうとダンスに太刀打ち出来ない、
芝居としても太刀打ち出来ない、コメディーとしても太刀打ち出来ない・・・というように、
あらゆる分野で太刀打ち出来ないけれど、
パントマイムですと謳うと許されるので、
パントマイムという名を表に掲げるなんてことになりかねないと思うんです。
マイムに対しましては、それぞれの考えがあるでしょうけれど、
今のところ私はこう思っているわけです。
例えば、
詩というのは、決して小説を書けない人が書く短い文章、
というのではありませんでしょ?
水墨画というのは、色を使いこなせない人が描く色無しの絵、
というのではありませんでしょ?
マイムはダンスにも芝居にも全てのものに必要な要素ですけれど、
マイムをマイムと謳って行うのであれば、マイムとは何か?を考えておくことは、
とても重要なことだと思うんです。
詩とは何か?水墨画とは何か?と同じように。
それは、
どんな世界を見せるか?
どんなふうに世界を見せるか?
ということにつながってくるのではないでしょうか?
小説と詩とでは、一般的な絵と水墨画とでは、現れる世界が違います。
それは、
形式が内容を規定するといった感じでしょうか?
コメディーをするのであれば、コメディーの形式をとる必要があって、
そこにマイムのテクニックを使うことはあっても、
マイムの形式をとりながら面白さを出そうというのとは、全く異質のものであるはずです。
それはダンスでもお芝居でも同じことだと思います。
パントマイムには表現として不自由な面はたくさんあります。
詩も水墨画も同じように不自由さはあるでしょう。
ですけれど、
その不自由さこそが形式になり、内容を規定してくれ、
だからこそ立ち上がってくる豊かさがあるのだと思うんです。
何でもありの自由な表現が、必ずしも豊かな世界を描き出せるわけではありません。
不自由さに立ち向かうと言いましょうか、不自由さをありがたく思うと言いましょうか、
正面から向き合うことで見えてくるものがあると思います。
私は、少しは見えてきたのかな?
見えてきてるといいな。