いわゆるお芝居、セリフのあるお芝居の人が、何故マイムの訓練をやらないのかしら?と考えていましたら、ふと、思うことがありました。
まあ、まず訓練をするしない以前に、マイムが単に特殊なテクニックとしてしか、見られていないということがありますね。
もし仮に、マイムのことを無言芝居だと見ていてくれたとしましても、単に無言ということであって、それならば、自分たちでの、普段の稽古の延長であろうなぁと。
このことは確かに、今現在、私たちの知るパントマイムは、その通りだと思いますから、特別パントマイムから学ぶ必要はないと思うんです。
むしろ、マイムをやっている側が、普通のお芝居を学んだ方がいいくらいで・・・
まぁ、それは置いておき・・・
ポーリッシュマイムでの演技といいますのは、一般的にイメージされるマイムの演技ではないんです。
ひと言でいいますと、
「全身を使う」
大袈裟というのとは、全く違います。
形(ポーズ)を作るというのとも、違います。
仮に、大袈裟にする際も、決して形ありきではないんですね。
あくまで肉体の内側からと、心からの動きの現れですから、いわゆるピエロのような、わざとらしさはありません。
形(ポーズ)につきましても、それは動きの一部を取り出した時の、瞬間的なものが形、ということでありまして、固定されたものでは、ないんです。
これは、空手なんかの型と同じですね。
型の決めの形みたいなものは、やはり、あくまで一連の動きの中にあるわけで、決して、そのある瞬間の形にだけ意味があるのでは、ありませんものね。
いずれにしましても、マイムが持つべき身体として大事なのは、
どんな心を持った身体なのか?
心と身体が100パーセント結びついているか?
ということ。
簡単なことではありません。
どうしても、イメージといいますか妄想が先行してしまい、肉体は、その妄想・イメージに引っ張ってもらう感じになりがち。
(で、肉体は置いてきぼり)
もしくは、肉体は動いているけれど、心まで肉体に向いてしまい・・・
そうして、何も語らない肉体を、人前にさらすことに・・・あぁ。。。
ポーリッシュマイムでは、自分の肉体を心と結び付けることが重要。
(肉体と言葉、ではありませんよ!)
目に見えない心を、肉体を通して可視化させる。
可視化されたものは、見る人の目を通して、頭ではなく、心に直接届く。
心が、言葉として届くのではなく、感覚として届くということ。
これを重視するかどうかは、それぞれだとは思うんですけど、マイムの人に限らず、誰にとっても基礎になり、最終地点になると思うんですよね。
私も、まだまだ、そして永遠に修行の身です・・・