コツを掴めますと、スムーズに行きますよね。
けれど、コツでは対応できないものが出てきたりしませんか?
コツが通用しない。。。
今はYouTubeで色々な人が色々なコツを教えてくれています。
秘伝なんじゃない?というものまで、丁寧に解説してくれていたりしますよね。
コツって、練習らしい練習をしないで、これまで出来なかったことがスッと出来るようになってしまうもの。
これだけコツが世に溢れていたら、みんな簡単に天才になってしまい、天才が溢れかえってしまいそうですね。
さて、それでも、やっぱりコツが通用しない場面が出てきます。
それは、コツで対応している限り、早々と遭遇してしまうもの。
なぜか?
コツは表面的なものだから。
コツは小手先のものだから。
どういうことか?
それは、コツがコツたるゆえんである、「練習らしい練習をしないで簡単に出来るようになってしまうもの」ということが、如実に語ってくれています。
つまり、
なんで、そんな簡単なことを、これまで思いつかなったの?
こんな反応、自分自身でも他人でも、しばしばありませんか?
「こんなことで、全然変わるんですね!?」
“こんなこと” あるいは “こんなちょっとしたこと”
そう! 些細なことなんです。これまでその人がやってきたことと、大して変わらないんです。
にもかかわらず、結果が全然違ってくる!
ビックリしますよね。
「なぁ~んだ。」と思ったりもしますよね。
さあ、ではなぜそんな「なぁ~んだ。」と思ってしまうようなことを、思いつかなったかのか?
コツを教えてくれた、コツを思いついた人、そういった人と、教わるまで思いつかなかった人と、何が違うんでしょう?
この差、「こんなちょっとしたこと」「なぁ~んだ」で埋まってしまうような差。なんだか小さそうですけれど、実は、大きな断絶があるんです。
差という言葉では埋められないくらいの、全く層が異なる、別世界なんです。
コツを思いつける人は、実はそのコツではやっていなかったりします。
やっている場合もあるでしょうけれど、必ずしもそのコツを使っているわけではないんです。
コツを思いつける人といいますのは、そのコツを内包するもっと大きく深い技術体系を備えているんです。
それは、たくさんの数えきれないコツを身につけているというのとは違うんです。
例えば、絵の具。
コツを教わるまで思いつかなかった人というのは、たくさんの色の絵の具をもらって描いているような感じ。
一方、コツを思いつける人は、極端な言い方をしますと、赤青黄色の三原色だけしか持っていないけれど、その組み合わせでどんな色でも生み出してしまえるんです。
ですから、前者は、赤青黄色の三原色を持っていても、紫も緑も自分では作り出せず、その色をもらって初めて「え!?赤と青を混ぜるだけで紫になるんだ!」「なぁ~んだ」となるわけです。
けれど、赤紫や青紫を生み出せはしない。いわんや紫と緑の間にある色に至っては、です。
コツを思いつける人は、初めて見る色でも、どんな組み合わせをしたらその色を出せるかの検討がつく。
コツを知っているだけの人は、持っている色しか使えない。
知っているだけの人は、記憶。知識。
思いつける人は、知恵。
身体の使い方も同じことなんです。
コツを思いつけるような身体になることが大事。私はそう思ってレッスンをしています。
知恵を持っている身体は自由。
知識だけの身体は、どれだけ多くの知識を持っていても不自由。
コツは、コツを不要とする身体になるための入り口なんです。
最初はコツを頼りにして、コツを手放せるようにしていく。
コツをたくさん持っている世界と、コツをたくさん思いつける世界。
似ているようで、全く違う世界ですね。