私たちは生きているのでしょうか?
・・・何をばかなことを、、、って思われます?
もちろん一般的な意味では生きていますよね。
では、「生きる」って何か?
・・・生活することとは違いますよ。それは生きていく上での術(すべ)みたいなものですもの。
「生きる」といいますのは、感じること、反応することだと思うんです。
見て、聞いて、触って、嗅いで、考えて・・・
肉体的なものと意識や心というところで、何らかの感覚が生まれる。
その繰り返しが、生きるということではないかな?と。
哲学的な例えば、「生きるとは善く生きることだ。」のようなものではなく、
生命として「生きる」というのは、単純にこういうことだと思うんです。
で、その「生きる」ということを、本当に私たちがしているか?と考えますと、
形としてはしているけれど、経験はしていない。
という感じがするんです。
どういうことか?簡単に言いますと、
感じていることを、感じていない(気が付いていない)。
私だって全く感じられていません、、、
肉体的なものも心の状態も、本当はどれだけ目まぐるしく、いろいろと感じているか?
それは途方も無いものだと思うんですよ。。。あぁ・・・
と、ここでは、その情け無さを取り上げるわけではありませんで、
ポーリッシュマイムはこの「生きる」ことを行っているというお話なんです。
役者さんは舞台で別の人の人生を生きる、というようなことを言いますけれど、それではなく、
生命としての「生きる」を経験するということなんです。
ポーリッシュマイムでのアクティング(演技)の基本は、
私たち人間が行っている物事の認識手順を、ひとつひとつ踏んでいくことにあります。
何かが目に映ったということを認識し、その次にそのものの性質(重さ、大きさなど)を認識し、次に、そのものに対する自分の感情(好きとか嫌いとか)を認識し、さらにその次に、自分の行動をどうするかの判断(近付くか?遠ざかるか?など)を認識し、そしてその行動をとる。
、、、はぁ~、、、と、まぁ、こんな具合でして、文章ですと、とても読む気が失せますでしょ?
実際の生活では、ごく短い時間、一瞬でこれだけのことをやっているはずなんですけど、私たちはほぼ無意識。
その無意識さのいい例があります。
向こうのテーブルにあるコップを取りに行ってみて下さい。とした場合、先程のことを意識しながら行動されます?
されませんよね?
そんなことをしていますと、たかだかコップを取りに行くだけで、えらく時間がかかってしまいますものね。
パントマイムは「全てをまねる」といわれるんですけど、ポーリッシュマイムではいまお話してきましたところの、
「生きる」ということをまねることに、その神髄があると思うんです。
(記号的マイムとの大きな相違点ですね。良し悪しではないですよ。)
私がポーリッシュマイムが瞑想に通じると考えますのは、このことにもあるんですよね。
「生きる」ことを経験する。
だからこそ、ポーリッシュマイムに触れますと、楽しくなってしまうんだと思うんです。
生きている自分をもう一度「生きる」。