オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

他人からどう見られているか?

他人から自分がどう見られているか?って、気になりますよね?

これって、普段はあまりいい意味ではありませんけど、それは、変に自意識過剰になってしまうことを言っているであって、
別の意味では、とても大切なことだと思うんです。

他者(他人という言葉ですと、なんだかほんとに他人行儀なので、他者という言葉にしますね。)からの目を本当の意味で気にするには、
その他者の感覚や認識の仕方を知る必要がありますでしょ?

客観的な視点を持つということですね。

それに対しまして、自意識過剰といいますのは、その他者の感覚を知ろうとすることなく、
もっぱら自分の方にばかり気が向いているということ。

ものすご~く、主観的ということです。

まるっきり違う視点。
(もちろん、厳密には主観と客観が分けられないものだとは、思いますけど・・・)


で、何かを表現するということにおきましては、他者からの目というものは外せない要素ですよね。
特にマイムにおきましては、とてつ~ぅもなく!大事。

マイムはダンスのように抽象的な動きをするのではなく、具体的な動きをしていきますから、
その具体性というものが、自分だけのものであってはまずいですよね?
他者とも同じ意味を共有できませんとね。

それに、演劇のようにセリフという頭脳間でやりとりする情報が無い分、より他者の感覚に目を向けざるを得ないんです。


今の世の中は、個性を重んじていますから、へたをしますとただひたすら主観的な視点だけを持つようなことになりかねません。

他者のことを知ろうとしない世の中・・・

他者の属性的なことには興味があるけれど、他者の感覚、認識の仕方には無関心という、世の中。


どうでしょう?
私が「マイムが平和につながる」と考える理由が、ひとつここに表れているんです。

自分の感覚と他者の感覚の、摺り合わせ作業。

このことなくしてマイムは成り立ちません。
(ただし作品はまた別ですよ。ここではあくまで、個々の動きについてです。)

自分の感覚は大事にしながらも、意固地になってはいけませんね。
それでは、他者との共有が出来なくなってしまいます。


あらゆる他者の感覚を知ろうとすること、自分の中に同じ感覚を見つけること、
独りよがりではなく、迎合でもなく・・・

主観と客観の融合。

自分という個の中に、普遍を見つける。



いい意味で他者の目を気にして、心も体も平和にしましょっ。

・・・あ~~、マイムって楽しいぅわ~~~。