オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

演技力をつけるために

演技って何でしょうね?

セリフの有る無しとは関係なく、演技って何か?

普通の演劇やマイムはもちろんのこと、ダンスでも演技したりしますけれど、
あらためて演技って何か?
を考えてみたことはありますでしょうか?

セリフのあるお芝居ですと、とかくセリフがイコール演技だと考えてしまいがちだと思うんですけど、
セリフはあくまで、演技に附随するものであって、演技そのものではないはずですね。

セリフの無いお芝居の場合は、動きがイコール演技になるのでしょうか?やはり、そうではないと思うんですよ。
動きは演技に附随するものであって、動きは演技そのものではない。

ん???
セリフでもなく、動きでもない・・・?

そんなはずはない!
セリフや動きが無くては、演技にならないではないか!

それは、確かにそうです。
そうなんですが、では、上手なセリフ回しや、いい動きといったときに、どんなものをイメージされますでしょうか?

それは単に声が通る、動きが綺麗、といったことではないはずでして、
セリフにしましても動きにしましても、その向こう側にあるものが見えて来るようなものだと思うんです。

その向こう側という、分かったような分からないようなものを伝えることが演技だと思うんです。
セリフを言うことや、動くことが演技ではないんですね。

で、その分かったような分からないようなものが何か?ですよね。
それが分からないことには、演技とは何か?の答えにはなりませんものね。

一般的には感情ということになるのでしょうけれど、感情を込めたセリフ、感情を込めた動き・・・
どうも、こういうイメージを持ちますと、演技が大袈裟になるような気がしません?

向こう側を伝えることを考えていないセリフや動きは、なんだか機械のようで温度が感じられませんけれど、感情を込め過ぎて大袈裟になってしまいますと熱過ぎて・・・(まぁ、好きな人もいますけれど・・・)

ですから、向こう側の分かったような分からないようなものが、感情であるとは思わないほうがいいのではないかしら?と思うんです。

それでは何だと思うといいでしょう?


変化。
心の変化。
感覚の変化。


どうでしょうか?
この中にもちろん感情も含まれますけれど、「変化」という言葉になりますと、やたら大袈裟にってことはなくなりますでしょ。

セリフにしましても動きにしましても、心を含めた感覚の変化が、まず先にあってのこと。

例えば、
「危ない!」と手を伸ばすといった場合、

「危ない」という言葉や、手を伸ばすという動きが先に生じるわけではなく、
危険だという認識が生まれ、回避するために手を伸ばさなければ、という意識(脳の意識か、身体の意識かは別として)が生じることが、先。

ですから、そういった心や身体の感覚の変化が起こりながらも、
「危ない!」と口にすることを止めることも出来ますし、手を伸ばさないでいることも可能なわけです。

それでもやはり、おおもとの感覚の変化は起きているわけですから、
そんな場合でも必ず呼吸や身体の動き、表情などに変化は起きるはずです。

そういった無意識的な変化、実生活では自分では制御していない変化を、敢えて舞台上で、人前で行うことが演技なのではないかなぁ、と思うんです。

決して「危ない!」と言うことや、手をぱっと伸ばすといったことではないんです。
「危ない!」と言う必要があれば、言うのでしょうし、手を伸ばす必要があれば伸ばす、といったことなんです。

感覚の変化が起きる前にセリフを口にしたり、動いたりしてしまいますと、それは中味のない空っぽなものになってしまいます。

単純な上手、下手とは違うんですね。

感覚の変化の見えない演技で、言っていること、やっていることを理解させることは出来るでしょうし、そのセリフや、やっていることの意味が人の心を動かすことも出来ますでしょう。

けれど、それはひとつ壁を置いた向こうの世界を楽しんでいるという感じで、
観ている人が演者と重なるような、飲み込まれるような感覚を生み出すことはないと思うんです。
(演者の人柄に飲み込まれる感覚はまた別。そのことはあらためて、ですね。)

セリフを言う前に、
動く前に、

心の変化。
感覚の変化。

大切にしてみて下さい。
きっと変わると思いますよ。