表現には、
◎自分の世界を表現する人と、
◎自分の世界ではない世界を表現する人
とがいるようですね。
表現なんて大袈裟なものでなくとも、普段の何気ない会話でも、同じことだとは思うんですけれど、まぁ、表現のことでお話は進めていきましょう。
私には自分の世界というものが無いといいますか、関心もないものですから、
あらためてこんなことを考えたこともなかったのですけれど、どうもそのようなんです。
自分の世界といいますのは、想像つきやすいですよね。
その人独自の視点。
では、自分の世界ではない世界って?ですけれど、
これは誰にでも共通のもの、あたりまえのもの、普遍的なもの、真理。
一般的には表現とは、その人独自の視点で見つめた世界を提示するということになるのだと思います。
で、その視点に共感してくれる人がどれくらいいるか?ってことだと思うんです。
反対に、自分の世界ではない世界という、誰にも共通のあたりまえのものを表現するということは、一体どこが表現になるのでしょ???
そんなものを見ても聞いても、面白くも何ともなさそうですよね?
さて、自分の世界を表現する場合には、その人がどんなことを面白いと思っているか?が大事ですよね。そこにオリジナリティがありませんとね。
いわゆる個性とも言えましょうか?
「よくこんなこと思い付くなぁ。面白いなぁ。」
って、思ってもらえるといいですよね。
で、自分の世界ではない世界の表現の場合ですけれど、これはまず一体何のために表現するんでしょうね?
表現する必要があるのかどうか?
もしかしたら必要ないような気がしませんか?
ところで、先日の私JIDAIのマイム公演に
「どの作品にも、主観から離れた世界観を感じた」
という方がいらっしゃいまして、この方はJIDAIを観るのはもちろん、パントマイムも初めてのようでしたけれど、思わず「鋭い!」と思ってしまいましたわ。
そうなんです。私は、表現する必要がないのではないかなぁと思われる、自分の世界ではない世界を表現しているものですから、
常に私の作品は面白いのかなぁ?と思っているんですよね。
ただ、先の方も決して否定的な意味での言葉ではありませんでしたし、公演をしますといくらかの方には楽しんでいただけているようなので、
続けていてもいいのかなぁ?といったところなんです。
自分の世界を表現する人は「何を」が大事になりましょうけれど、
私のように自分の世界ではない世界を表現する者にとりましては、「何を」にはオリジナリティがないわけですから、
「どのように」という文体・口調といいますか形式、あるいは様式こそが重要になってくるんです。
誰にとっても共通のあたりまえのことを、
観た人がまるで新しく初めて気が付いたようになったり、認識を深めたり、楽しんだりしてもらわなくてはなりませんで、
「ああ、そうだよね。」ではやはり表現する必要は無かったということになってしまうと思うんです。
パントマイムというものがある意味では、ひとつの形式になるのでしょうけれど・・・
そのパントマイムの中で独自の形式で語ることができたらなぁ・・・
独自の世界を持っている人を羨ましいなぁと思いつつ、一方では、この普遍的なテーマこそが深く共感され得ると信じ、
まぁ、出来ることしか出来ませんし、出来ることを一生懸命やるしかないですね。