イメージ:主体は自分
実感:主体は感覚
例えば、
イメージ:自分が悲しいと感じる
実感:悲しみの中に自分がいる
少し前にお話しました「イメージよりも実感を!」の続きなんですけれど、
感情表現でのイメージといいますのは、この例えにありますように、
悲しさを感じようとすることになるんです。
実感との違い、お分かりになりますかしら?
実感といいますのは、普段の私たちの生活でのあり方と同じなんですけれど、
◎自分が悲しさを感じるというのではなく、
◎悲しみという何か自分よりも大きなものが、自分を通して表れているという感じ。
この辺りのことは、ピンと来る人は来るでしょうし、そうでない人はちょっと難しいかもしれません。
普通、私たちは自分が悲しんでいる、自分が喜んでいる、自分が怒っている・・・と、
あくまで自分が感情の主体だと思っていると思うんですけれど、
そうではないと思うんですよ。
悲しみでも喜びでも、怒りでも、何かそういった感情が何かのきっかけで、ふっと、自分に入ってくる。
そんな感じ、しませんか?
もし、自分が主体で悲しんだりしているのだとしますと、悲しむことも喜ぶことも、
全て自分でコントロール出来るはずですよね?
悲しもうと思えば、悲しくなり、
喜ぼうと思えば、喜べ、
怒ろうと思えば、怒れる。
逆に言いますと、
悲しみ、喜び、怒りをいつでも自由に止められる。
肉親の突然の死を前にしても、悲しみではなく喜びを選ぼうと思えば喜べ、
身に覚えのない中傷を受けても、怒りではなく楽しさを選べる。
宝くじで一等が当たって、怒りを選べる。
まぁ、人によりましては、私はそんなふうに出来ますよ、という方もいらっしゃるかもしれませんけれど、
それでも、まずは自分が生み出したくて生むのではない感情、自然に(反射的に)生まれる感情があるはずですね。
あくまでその感情を抑えて、別の気持ちを持ち出すと思うんです。
それはあくまで理性でありますでしょ?
私たちは生きているのか?生かされているのか?
ということにもなりますけれど、それはちょっと横に置いておきまして、
「イメージでの感覚」と「実感での感覚」との違いは、お分かりいただけましたでしょうか?
つまり、イメージの延長線上に実感は無いんです。
イメージをしていて、ある時実感が生まれることがあるかもしれませんけれど、それはある時、ラッキー(!)にも質が変換をしたのであって、イメージの積み重ねではないんです。
へたをしますと、イメージしている最中といいますの、
「そうではない」
ということを確認している作業になるわけですから、
ますますそのなりたい状態から遠ざかっていってしまうんです。
そのせいでしょうか、イメージで感情表現をしようとしますと、繊細な表現は難しくなってしまいますね。
なにしろ「そうではない」ということを感じつつ、抑えた表現は不可能だと思いますでしょ?
一方、より大きな表現(自分の経験値を超えたもの)も不可能ですね。オーバーアクションあるいはオーバーな表情しかありません。
最小値も最大値も不可能ということは、その間の中間値の表現はどうなりますでしょう?
そうですよね、可能だとは思えませんよね。
イメージという自分を主体としたものは、自分を超えることは出来ません。
実感という自分を主体としないものは、自分を超えるチャンスがあります。
JIDAIマイムクラスでは『真呼吸クラス』で、この感情の実感を学んでもらっていまして、やはり回を重ねるごとにみんな実感の度合いが高まってきます。
今の自分を少しでも超えるために、実感しましょっ!