あなたに自由はなぁ~っい!
なんて言われたら嫌ですよね。。。
ところで、この自由ってなんでしょう?
勝手でありますとか、束縛が無いでありますとか、そういった漠然としたものでは、ちょっと分かりづらいですよね。
自由=選択肢がある
というのは、どうでしょ?
まぁ、単純にイエスかノーかを選択できるということですとか、こっちかあっちかを選べるでありますとか、そういったことですね。
もし、選択肢が無く、それしか無いといった場合、
例えそれが自分が好むことであったとしましても、それは自由があったとは言えませんでしょ?
さてここで、心というものを自由かどうか?という視点で眺めてみましょう。
あなたの心はいつも、どういう反応をしていますか?
自分を悪く言う人がいたとします。
そんな時、
悲しく落ち込む?
怒りでカッとなる?
悪いところを指摘してくれて、ありがたいと感謝する?
人のことを悪く言うようなその人を、可哀想な人だと哀れむ?
全く気にしない?
本当に自分にそういう面があるのか、冷静に分析する?
いかがですか?
出来事としましては自分が悪く言われたという、ただひとつですけれど、
その反応は大雑把に、ここにあげました6つくらいはあると思うんです。
ところが悲しくなる、カッとなるといったような反射的な反応しかできない場合、
そんなあなたの心は感情に支配されているわけで、自由とは言えないですよね?
反射といいますのは、反応の仕方に選択肢が無いということですものね。
仮に、いつもニコニコした陽気な楽観的な反応だとしましても、それしか出来ない、他の選択肢が無いのだとしましたら、
それもやはり自由とは言えませんね。
つまり心が自由になるには、選択肢を増やすという、それなりの知性が必要になりますでしょ?
これは身体にも言えることでありまして、
あなたは普段の動きに不自由さを感じていますか?
怪我や障害が無いならば、普通は不自由には感じていないと思うんです。
けれど、今のあなたの動き方は、自ら選んだものではなく、長年の習慣の結果であり、その動き方に束縛されているんです。
例えば、大抵の場合、歩きに自由さはありませんでしょ。
無意識に、そうとしか歩けないように歩いていますね。
私たちの日常生活はほぼ全てが、このように習慣によって固定された動きでしかなく、
実は非常に不自由な身体で生きているということなんです。
自由になりたいとしますなら、まずはその不自由さに気が付く必要がありますね。
不自由だと思わないのに、自由を求めるなんてあり得ませんでしょ?
逆に言いますと、自由を求めることは、自分の不自由さをこれでもかと味わうことでもあるんですけどね。
(けれど、さて、これは辛いこと?)
まぁ、もちろん全く制限の無い自由なんてものはありませんけど・・・
さて、自分がどれくらい不自由であるかに気が付かないでいることは、ある意味では自由を感じることになるかもしれません。
けれど、不自由であることを味わいつつ、選択肢を増やしていくという自由を得ることは、悪くないと思うんですよ。
不自由に目を閉じて、今の自由を大事にしますか?
不自由と向き合いつつ、自由を得ますか?