オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

表現と技術

表現の世界では

技術というものを蔑視

するようなところがあります。





一方、私は、以前からずっと技術の重要さを説いてきました。


どうも、私のいうところの技術と、一般的に思われている技術とに、
随分と大きな差があるようです。



それは、技術という言葉で、何をイメージしているかだと思うんです。





技術が蔑視される理由ですけれど、



型にはまる


技術に拘束される


自由が阻害される



といったことではないかと思うんですね。





けれど、私の考える技術といいますのは、



型にはまらない


自由である


それは、いわゆる一般的イメージである技術に、拘束されないための技術。



そのための意識的操作(心の操作、身体の操作)なんです。





ただここで、「意識的」とか「操作」という言葉を使ってしまいますから、
どうしても、それこそ作為的で自由ではなく、
何かしらの型にはまった状態だろうと思われてしまうだろうことは、分かります。




私のいう自由の前提として、不自由さに気づいていることがあるんですね。
それは、心も身体もです。





不自由さに気がついてない状態は、自由になっている気がすると思うんですけど、
それは本当に気だけです。


「自分」という無意識の枠


に制限されているんです。





ですから、心身の意識的操作といいますのは、不自由さを飲み込む術ともいえまして、
それは「自分」を外すことなんです。





それが結局のところ、前回の表現力アップもそうですし、
以前お話しましたゾーンに入るというのもそうであるように、
一般的に「センス任せ」「才能任せ」「集中力任せ」といわれるものから、
脱することにつながるんです。



エモーショナル・ボディワークというのも、感情から「自分」を外すことで、
感情から自由になるワークになります。
これも、以前、感情は個人のものではないというお話をしましたね。




・・・とまぁ、何だかすごく大袈裟なお話になてしまっていますけれど、私もまだまだです。
だからこそ、日々探求しているわけです。






少し前に、デザイナーの山中俊治氏が、芸術家の会田誠氏との対談の後、
こんなことをツイートされていました。




「自分の型を持ちたくないから、練習なんかしない」会田さん。

型を持ちたくないのは同じなんだけど、だから片っ端から練習してしまう私。




面白いですね。






ところで、先ほど「不自由さを飲み込む術」といいましたように、
不自由さを飲み込むというのは、単なる頭での理解ではないんです。



身体が理解している状態でなければ意味がありません。





この、身体に理解させることが、日々の練習で必要なことであり、
理解した状態が、飲み込めた状態、すなわち「自分」を外せた状態ということになるんです。



身体の理解度の深さが、「自分」を外せている度合いとなりますでしょうか。






一般的な「何かをする」というのも技術ですけれど、
これは、自分が「何かである」を作っているんですね。




「何かをする」という技術は、言葉で伝えられますが、
「何かである」は体験が先にきませんと伝わらないという、ちょっとややこしいものではあります。





とはいえ、何かで「ある」という状態は、訓練で質を上げられます。
身体の理解度を深めるということですね。
だからこそ、日々稽古しているわけです。





これを技術と言わずして、何と言いましょうか?

ということなんです。






ところで、子どものとき、まだお箸が上手に使えないころ、
うまく指が動かなくて、お箸を一生懸命に操作していたと思うんです。
それが、いつの間にか、眠っていても使えるくらいになってしまいます。

けれど、そうやって無意識で使えるようになった後は、
それ以上、上手にはなりませんでしょ?

歩くのもそうですし、字を書くというのもそうですよね。

(「上手」に関しても技術蔑視があります。それは後半にお話させていただきます。)






それは自由そうでいて、不自由。


私は、歩くことに関してはかなり自由になってきていますけれど、
字を書くことはとても不自由さを感じています。



同じことなんです。




自由に字を書いて下さいと言われて、本当に自由に書ける人なんて、
そうはいないだろうということは、だれでも分かると思うんです。



そうとしかできない状態を、自由とはいいません。





私のいう技術を身につけること、すなわち型にはまらないため、自由になるための練習は、

「今の自分の自由」を制限される

ことになりますから、
人によっては、型にはめられる、自由を奪われると思ってしまうかもしれません。





もちろん、当然です。
その人にとっての「今の自分の自由」から脱皮しようというわけですから、
その自由(勘違いした自由ですね)は無くなります。





今の自分が何かを「する」のではない。





技術というものを、目先の結果を得るためだけのものとしてしか捉えられませんと、
ここでいう技術は決して身につかないでしょう。





「今の自分の自由」へのプラスアルファは、無理なのです。






あらためて言うまでもないと思いますが、
この技術は身体だけの問題ではなく心の問題ともいえます。



何かを「する」という技術だけでなく、
何かで「ある」を作る技術があることを、
知っていただければと思います。







さて、技術にはもう1つの側面、一般的にイメージされる技術があります。


表現技法そのものにかかわる技術ですが、内面とは関係の無い、
いわゆる上手、下手の技術です。




技術蔑視は、上手であること、上手になろうとすることを蔑視することに他なりませんが、
ここはとてもナイーブな問題だと思います。




端的にいえば、表現内容よりも技術が目についてしまうことが、問題なはずなんです。

それが、なぜか上手になることそのものを、まるで良くないことのように考えてしまう。。。





未熟であることが、


技術に頼っていないであるとか、新鮮だということで、
良い評価につながりやすい面がありますよね。




これは、先ほどの自由にも通じますが、不自由さに抗う姿勢が、
むしろ心打つという感じでしょうか?





良い例があります。

私の知り合いのパントマイムをしている人に、非常にオリジナリティのある世界で、
多くの人を楽しませてくれる人がいるんですね。


彼は、正直上手ではありません。むしろマイムの技術でもいわゆる表現力という点でも、
明らかに下手です。


けれど、彼の人柄と真摯さ、そして作り出そうとしている世界が、
その下手さとマッチしている、、といいますか、
その下手さでなければ表現できないものとして、成立しているんです。




下手ウマの世界ですね。




未熟といえば未熟なんですが、彼はそれでも凄いです。本当に尊敬に値します。
このままずっと頑張って欲しいと思います。




彼は上手くなってはいけない。

(心配はしていませんが 笑)






これは非常に稀な例だと思います。



こういう人は、ある意味天才なわけですから、
私たちような普通の人間は、そこを目指してはいけない。

痛いものか、いやらしいものになってしまいます。





また、先ほどの未熟さへの高評価ですけれど、
繰り返し同じようなことをしていますと、自然とどうしたって上手になってしまいますでしょ?



こうなってしまいますと、中途半端な上手さが”あだ”になってきてしまいます。

未熟でい続けることは難しい。


下手ウマの才能がない限り、意識的に上手な技術と向き合ったほうがいいと思うんです。






で、その上手な技術ですけれど、


つまるところ、技術は何のためにあるのか?





表現したい(される)世界の純度を上げるため






これは、どういうことかといいますと、
技術を世界の裏に隠すため、ただただ世界だけを立ち上げるために、
(上手な・高度な)技術が必要ということなんです。



つまり、



下手な技術は、どうしても目についてしまい、

世界が純粋に現れてこない。





ですから、下手な技術とは、表現されるべき世界に”足りない”のはもちろん、
”そぐわない”技術になります。



その意味で、
下手ウマの下手さは、下手ではないですし、
いわゆる上手であっても、そぐわなければ、下手ということになるわけです。





そう考えますと、技術に対する蔑視は、
上手だけれどそぐわない、そぐわないのに上手という技術が念頭にあるのではないかと思います。





それは、

技術のための技術


になってしまっているからですよね。





ちなみに、私がクラスで伝えている技術は、
いわゆるパントマイムっぽいテクニックが上手になるためではないんですね。
(もちろん、上手にはなるんですよ。)





世界をありありと浮かび上がらせる。


さらに、世界を見せるだけでなく、




その世界に観客を巻き込む。





それは、

目には見えない色を映し出し、

耳には聞こえない音を奏で、

感触、重さ、温度といったものと共に、

時間も空間も自在に変容させることで、

非日常的な世界を演者のものだけでなく、観客自身のものにしてもらうということ。





ちなみに、この「世界」というのが、何を指すか?ですけれど、
「私」という世界ではないんですね。




「私」を見せるというのではなく、むしろ「私」の無い表現されるべき内容そのものこそが、
アートマイム、オーガニックマイムでいう世界です。






このように世界の純度を、できるだけ高めたいわけです。


そのためには、陰に回って世界を支える力を持った技術が必要なんです。





技術は見せるものではなく、見えてくるもの。



世界は技術を通して浮かび上がるのです。





美味しい料理が高い技術に支えられているのと同じですね。
低い技術にいくら愛情を注いでも、美味しくはなりません。


かといって、技術が悪目立ちしても、いやらしい。




やはり、技術のための技術に陥ってしまうかどうかは、
表現されるべきものに目が向いているかどうかだと思います。






最後に。



技術(前半でお話した技術も、後半でお話した技術も)が足りないうちは、
どうしてもそれが足かせとなって、世界が描けなかったり、広がらなかったりします。
 



裏を返せば、

世界は技術に規定される。





(この不自由さから脱するために、技術を放棄するというやり方が、
通用する人と通用しない人がいますが、どのみち、持ち得ない技術があるわけですから、
技術という言葉を使うかどうかの問題であって、
使える技術に規定されることに変わりはありません。)






心身の意識的操作という技術(何かで「ある」を作る技術)、
上手下手の技術(何かを「する」という技術)、
どちらも技術。





思いはこめるものではなく、こもっている状態であるように。


身体能力は見せるのではなく、思いを支えるため。





世界の純度・強度を高めるために、


技術を磨く。


技術を発見する



そういうやり方。





いつも増して、長文。。。
最後までありがとうございました。






       10月4日 『身体感性を育てる〜身体と想像力〜

                 https://www.facebook.com/events/697397900360960/




  10月8日 『声(音)を体に響かせる〜身体感覚を磨く 第12回』

                 https://www.facebook.com/events/806382676126766/




           10月11日 『原始歩き同好会

                 https://www.facebook.com/events/535548329936080/





  10月18日 『声(音)を体に響かせる〜身体感覚を磨く 第13回』

                 https://www.facebook.com/events/963932987010054/




          10月22日 『エネルギーワーク

                 https://www.facebook.com/events/548493821965625/




  10月30日 『表現者のための呼吸 心と身体のワークショップ

                 https://www.facebook.com/events/721994864595198/





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