「正確に描く事に捕われてしまうと、絵が死んでしまう。
正確に描くことが無意識にできるようになるまで修練を積むと、
そこから自由になれる。言葉と同じだね。」
私はこれを身体表現する人にも伝えたいなと思うんです。
もちろん、私自身がどこまでその域に達しているのか?ということはありますけれど、
そう意識して今までやってきて、実感しているところではあります。
今は
「個性個性!」
「自分を表現しよう!」
「もっと自由に!」
なんていう時代なものですから、
つい、今の自分のままで、好きなように動くことが良いと思われがちですよね。
あるいは、精神性を強く求めるあまりと言いましょうか?
身体を動かして表現するものであるにもかかわらず、
内面ばかりを大事にして、身体は自然に任せてしまう。
そんなこともあるようです。
精神的な自由に捕われて、身体を正確にコントロールする術を学ばないでいるというのは、
身体の自由から遠ざかってしまうわけで、
それは端から見ると、
精神の自由性よりも身体の不自由さにもがいている姿になってしまうのではないかな?
と思うんです。
どうも、身体を正確に動かすことを学ぶことが、
個性を失わせることだと思われるフシがあるのですけど、
それはクセが消えるとその人らしさが消えるということかもしれません。
確かに変な姿勢の人が、良い姿勢になってしまいますと、
全く印象が変わってしまいますものね。
けれど、
クセが身体の不自由さの現れであることは間違いありません。
これはどちらを取るか?だとは思います。
で、身体がもっと自由に動くようになったらいいなぁ、と思うのでしたら、
やはり正確な動作を学んでいくしかないと思うんです。
もちろん、しばらくは不自由さを感じることになりますよね。
なにしろ、今まで間違った動作をし続け、それが自分にとっての当たり前で楽な動き方なんですから。
がんばるしかないですね。
それと、正確な動作を身につけていく中で大事なことは、
やはり最終的には自分の自由に動くということですから、
いつまでも表面的な正確さにこだわっていますと、
冒頭の
「正確に描く事に捕われてしまうと、絵が死んでしまう。」のように、
動きが死んでしまいます。
つまらない動きになってしまいます。
見ている人には、死んだ動きが印象に残ります。
(これは、身体表現で形を教えるという方法をとっているものには、
常につきまとう問題ですね。)
正確な動きをすることが表現になるわけではありませんよね。
正確な動きを無意識レベルで出来るように身につけ、
ただ表現したいものを表現する。
そうなると、身体が消え、表現が見えてくる。
いいと思いません?
山中俊治氏の言葉を、身体表現する人にも伝えたいなと思うと書き始めましたけれど、
自分自身、そうありたいなぁ、と思います。