オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

「思考」は個人的なもので、「感情」は個人のものではない???

先日ツイートしました

「思考」は個人的なもので、「感情」は個人のものではない。

みなさんはどう思われますか?


感情というのは、個人の中にあるのではなく、宇宙に偏在していて、

それが例えば、私の身体を通して

私個人の感情のように表現されてしまう。


感情とは自分のものではない。

私はそう思うんです。


ただし、普段の私たちの生活では感情に思考が結びついてしまっているので、
なかなか感情が自分のものではないとは考えづらいと思うんです。


思考と感情を、どう考えたらいいのか?


分かりやすいところで、赤ちゃん。
赤ちゃんをくすぐったり、お腹をこしょこしょってしたら、
笑い声を上げたり嬉しそうにしますでしょ?
もし、つねったり叩いたりしたら、大声で泣きますよね。

これは、もともと身体に備わっている「快・不快のスイッチ」に触れた結果だと思うんです。
ですから、叩かれた赤ちゃんは決して叩いた相手に怒りを感じているのではなく、
自分の身体の不快のスイッチに触れられたから、泣いたのだと。
くすぐられて笑うのも同じで、快のスイッチに触れられただけ。


思考というものが頭の中での実体の無いものであるのに対して、

感情は身体的なもの

だと思うのですが、
もし同じ人がいつも叩いてくるようであれば、
徐々に、その人が自分の不快のスイッチに触れてくる人だということになって、
その人に対して何らかの負の感情を持つようになる。

本当はされた行為そのもに対して不快感を覚えるだけで、
その人と結びつける必要はないんですけれど、
その”人”に対して不快感を覚え、
自分(の生命)を脅かすものから身を守るための攻撃性と結びついて、
徐々に怒りや敵意を持つようになるかもしない。

頭の中での思考と身体感覚が結びつく

のだと思うんです。


あるいは、大人になるにつれて、良い悪いという価値観が芽生え、
悪いことをしないよう我慢していますと、その悪いことをしている人に対して、
ある種の感情が生まれてきますよね?
憎らしいと思うのか?羨ましいと思うのか?それは分かりませんけど、
いずれにしましても

思考抜きには生まれてこない感情

だと思います。


私たちはこのようにして生きてきていますから、
簡単には思考と感情とを切り離しては考えられませんけれど、

純粋な(単純な?)感情の出処というのは、

赤ちゃんの快・不快のように非常に身体的

なもので、
そこに

いくらかの思考が結びついて、より複雑な感情になっている

のだと思うんです。
(身体的という意味では、陰陽五行説などでも感情と臓器を結びつけていますよね。)

その意味で、今回のお話での「思考」というのは、身体的なものと結びついていない、
純粋に頭の中で起きている「思い、考え」だとみていただければと思います。


で、感情。感情は身体抜きには存在し得ない。


私たちは人間として皆、基本的に同じ身体構造を持っていますから、
身体に依っている感情は単純な感情ほど、民族・年齢・性別問わず、普遍的なものだと思うんです。
(単純な感情に関しては動物とも共通しているであろうことは、想像に難くありません。)

そして多くの人間は地域は違えど、似たような文明社会の中で生活していて、
複雑な感情も相当数のものが共通していて、
それはある種の身体的感覚をそれぞれ伴っていますから、
やはり人間が普遍的に持ち得る感情だと考えていいと思うんです。


ところで例えば、生命エネルギーというものは、
私という個人的な身体で生まれるものではなく、私の外にある、
つまり

宇宙にある生命エネルギーが、この身体を通っている

のだと思うんですね。
(通りやすい身体、通りづらい身体というのがあるのでしょうね。)


それと同じように、感情が身体的ということは、
感情は個人というものとは別次元にあるように思うんです。
(身体と繋がりのない思考というものは、何を良い悪いと考えるかは人それぞれであるように、
個人的なものだと思うんです。)


そこで、
「感情というのは、個人の中にあるのではなく、宇宙に偏在していて、
それが例えば、私の身体を通して私個人の感情のように表現されてしまう。」
という言い方をしたわけです。

ちょっと極端な言い方かもしれませんね(笑)


私の身体は他人の身体ではありませんから、
私の身体に起きていることが、私に起きていることではないんだ、と言われても
「・・・?」かもしれませんよね。

けれど、そう考えることで、つまり感情というものが自分個人のものではなく、
ただ外にあるものが自分の身体を通るだけなんだと思えるようになりますと、

感情とのつき合い方が変わってくる

と思うんですね。

実際に表現のワークショップの時などでも、
人によってはこれまで出せなかった感情を、表現出来てしまったりするんですね。


心の壁を、いとも簡単に乗り越えてしまえる!


逆に、
感情というものが自分自身と密着していて、手放させないでいますと、
感情表現のワークには強い抵抗、戸惑いを感じることになります。

これは、決して特別なことではありません。
私自身がそうでした。以前の私でしたら、感情表現のワークなんてとてもとても・・・
まさにとんでもない世界で、死んでもやりたくない!でしたね。

それが今は、楽しいですよって、人にやらせようとしているんですから(笑)、
人は分かりませんよね。


ちなみに、日常生活の中で、自分自身と密着した感情を強く出している人に出会いますと、
きっと観ている側はちょっと不快な気持ちになると思うんです。

思考で汚れた感情と言ったら言い過ぎでしょうか?

例えば、小さな子どもは泣いても怒っても大抵は可愛いですよね?
純粋に感情を表現しているからだと思うんです。
けれど、私の気持ちを分かってよ~っ!といったようなものが含まれた感情は、
たとえ子どもでも嫌な感じがしますよね。

純粋な怒りの表現ではなく、そこに自分を正当化しようとか、自分を大きく見せようとか、
何でもいいんですけど、そういったものがくっついていますと、
やはり伝わってしまうんでしょうね。
(あぁ、気を付けないと・・・)




私たちは一般的に、

自分の感情を自分のものだと思っているので、

出て来た感情を正当化しようとしてしまうんですね。


自分が感じたんだから、感じたこと自体に間違いがあるはずはないと。


例えば、誰かに怒りを感じた場合、怒りを感じた自分を正当化するために、
相手が何か自分に嫌なことをしてきたから、その人のせいで私は怒りを感じたんだと。
その人が悪いのだと。私は怒りを感じて然るべきだと。

けれど、もともとの怒りという感情には理由はないはずなんです。
ただ、身体的な反応なんですね。
熱いやかんに触ったら、反射的に手を引っ込めるようなものなんです。

それを、やかんが熱いとは思わなかった。熱いやかんが悪いというのは、

余計な考え

なんです。

とはいえ、その考えですらほぼ反射的になってしまっていますから、
余計だと言われても・・・だとは思うんですけどね。。。

もちろん私だって、分けられるわけではありません。。。
誰かに怒りを感じるのではなく、
ただ身体的に不快な瞬間があっただけなのだとの認識にとどめておければいいんですけど、
なかなかそうは・・・ふぅ~。。

こういうことを分けられるように、例えば、ヴィパッサナー瞑想などで修行するんでしょうね。

まぁ、それはともかく、実際にどこまで出来るかは別としまして、
そういうことだろうと思うわけです。




自分に生まれてくる感情が、自分のものではなく、外からやってくるということは、
こういった日常だけでなく、

舞台などで表現する者にとっても、

とても重要な意味を持っている

と思うんです。

感情は個人の外にあるけれど、具体的な身体を通してでないと現れてこないものですから、
ある人の身体を通して現れた感情は、その人固有の感情に見えます。
それでもやはり、感情は個人の外にありますから、同時に、誰のものでもあるんです。

感情は宇宙に偏在するものだからこそ、

こちらの感情が観ている人の感情と共鳴出来る。




思考はそうはいきません。

思考は個人的なものなので、

他人の思考に対してこちらも思考で向き合うことになってしまいます。

(共感というのは、その思考に内在する感情が共鳴することだと思います。)


舞台で表現する人は、ここのところは意識的であった方がいいように思います。


感情を通す身体なのか?

思考を表す身体なのか?


ちなみに、私たちのマイム、オーガニックマイムが非常にエモーショナルなのは、
観ている人の思考に訴えかけるのではなく、
身体に訴えたい、共鳴してもらいたいからですね。

そのために「エモーショナル・ボディワーク」というものを行なっているのですけど、
それは、何かをイメージさせることなしに身体感覚や空間意識を使って感情を出す訓練でして、
それによって、
出来るだけ純粋な感情を拾い上げる。
自分の身体を使って、宇宙に偏在する感情の姿を目に見えるものにする。
宇宙に偏在する感情が自分の身体をスムーズに通れるように。


ある生徒さんは言っていました。

このワークが恐い

と。
それは

自分という存在の根拠が、どこにあるのかが不安になるから。

感情が自分のものではない・・・私が感じたと思っていたものが、私が感じたものではなかった?

何だか禅問答のようですよね。
けれど、ある時から何かが分かってきたようで、
自分を再構築しているように思えるようになったと。

思考と結びつけない感情表現は、どんな種類の感情でも楽しめますしね。
(複雑な感情は思考と結びつくことで生まれてくるというお話をしましたけれど、
ここでは、そこに具体的な理由付けをしないという意味でみていただけたらと思います。
例えば、”憎い”はただ憎いであって、◯◯だから憎いというようにはしない、ということです。)




さて、思考は個人的。自分に属していて、感情は自分に属したものではない。という今回のお話、
科学的に合っているとか間違っているとか、そいうことではなく、
役に立つかどうか?だと思うんです。

何せ、科学的に合っていたとしましても、共感出来なければ役に立ちませんものね。
共感は思考(理屈)だけでは出来ません。感情が影響します。
で、その感情は自分のものではないとなると、共感というものは、自分ではコントロールが難しい。


お話、ものすごく長くなってしまいました。。。
この手のお話は、理屈ですとどうしても長くなってしまいます。理屈よりも体感です。
ぜひ、体感しに来て下さい。楽しいですよ。




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