オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

上手に上達!

私はいつも疑問に思うんですけれど、新しい動作を習得する際に、なぜその動きを分解して順番にきちんとやっていくんでしょうね?

例えば、ボールを投げるピッチング動作を学ぶとしまして、
片足に体重を乗せる→もう一方の足を踏み出す→体重移動しながら胸を開く→体重を移してボールをリリースする
といった感じで、それぞれを練習してそれをひとつにまとめる。

これはとても難しいことだと思うんですよ。

かなりいい感じで投げられるようになってからでしたら、こういった練習はとっても大事になりますけれど、当分の間はあくまで全体の一連の動作があってこそだと思うんです。

正しい動作は大切ですけれど、まずはとにかく、なんとなく出来ることだと思うんですね。
自転車にある程度十分に乗れるようになってから、より速くこぐための正しい動作を学ぶわけで、
乗れもしないうちに、細かく分解された動きをひとつひとつ練習する
のは、どうなんでしょ?と。

大雑把にですけれど、西洋式といいますのは、このように分解されたものを積み上げた先に、完成形があると考えているようですね。

一方東洋式では全体がまずありき、といった感じがします。
例えば踊り。日本舞踊ではとにかく最初からある曲目を演じていきます。基本的にはそれを何度も稽古するんです。バレエのように、バーレッスンがあったり、ステップの練習があって、その次に・・・といった積み上げ式では全くもってないんです。

マイムですとどうでしょう、分解運動があって、重心移動の練習があって・・・といったところでしょうか。(私は疑問に思っているので、こういった感じのレッスンではないのですが・・・)

まぁ、もちろん、東洋式の全体ありきが必ずしも良いとも思っていませんで、これはこれで、とても学びづらい。。。
あまりに漠然としていまして、何をどうすれば良くなるのか?手がかりがつかみづらいんですよね。


で、私は基本的にはまず全体ありきとしながらも、西洋式つまりは科学的・分析的なものと行きつ戻りつといった感じで、相互に補完し合うのがいいと思っているんです。


部分の積み重ねが全体になるわけではなく、あくまで全体の中に部分がある。
で、その部分については出来るだけ詳細に見つめ、見つめながらもそこには決して現れることのない、部分と部分をつなぐ「何か」を全体を見つめることの中から捉えるようにする。


全体を捉えるのは右脳的作業。
部分は左脳的。

感覚と知能が補完しあう。

で、最後は感覚。
知能のスピードは感覚のスピードには絶対に追いつけませんもの。
研究者でない限りは、知能優位ではなく感覚優位でなくては困ります。

とはいいましても、感覚を天性のものに頼れない凡人(私を筆頭に)には、感覚を効率的に磨くために知能が有効。

さぁ、上手に上達していきましょっ。