私は生き物でいたいなぁ、と思うんですよね。
もちろん、生きていますよ。
死んだように生きている、ということはないと思いますよ。多分・・・
生きているといいますのは、変化し続けているということで、それは目に見える外側のことではなく、内側の目に見えないエネルギーの変化かな?と思うんです。
その内なる変化が、たとえば身体という外側の目に見えるものを動かしていく。
外側の身体が動いているから、生きているというわけではないと思うんです。
ところで、マイムに限らずダンスなどの身体表現系の訓練を積んでいきますと、大抵そのメソッドが西洋的な、身体をモノとして扱うような形になっていますから、身体は動くようになってはいくものの、その動きの源となる内なるエネルギーが忘れられがちになってしまうんですよね。
そうなりますと、その人は動いてはいるものの、その中にはいないという感じになてしまうような気がするんです。
これは、とっても説明が難しいんですけど、本気でやっているかどうかとも違いますし、すごく楽しそうにやっているというのとも違うんです。
それですと、まだその人の外に身体があって、いえ肉体といったほうがいいかもしれませんね。その自分の外にある道具としての肉体を動かしているという感じなんです。
JIDAIマイムクラスにあります『エモーショナル・ボデイワーク』といいますのは、このあたりのことを克服するために行うわけなんですけど、例えば、悲しいということを表現するのに、どうしても悲しみを表現しようとしてしまうんですね。
ところがそれでは、どこまでいきましても「自分が」悲しいというように、自分が消えてくれないんです。
『エモーショナル・ボデイワーク』は表現しようとするものではなく、あくまで体感しようとしているものでして、自分というものが消える・・・つまり自分が「悲しみ」の中にいる、という状態を目指しているんですね。
ん~、、、この「中にいる」というの、お分りになっていただけます?
だいぶ以前にもお話ししたんですけれど、あなたが何か悲しい思いをしているときって、自分で悲しもうとはしていないですよね。
むしろ、悲しみがどこからかやってきて、捕らえられてしまったような・・・そこから自分では抜け出せないような感じ。
悲しむまいと思っても、目に映るものがすべて悲しみ色に染まってしまい、耳に届く音もすべてが悲しみというフィルターを通して聞こえてくる。
そんな感じではありません?
(ここまで悲しい思いをすることも、あまり無いとは思いますけれど・・・)
これが、「その中に入っている」という状態。
ですから、あなたの悲しみが深ければ深いほど、あなたという存在が消えていき、悲しみだけがより純粋に立ち上がってくる。悲しみという空間が大きくあなたを包み込んでしまう。
人には普通、それをきちんと感じ取れる力がありますから、その中に入って行けなくなってしまうのだと思うんです。
このような「中に入った」状態になりますと、その人の動きといいますのは、何をしていましても、どんな動きでありましても、その空気感を纏(まと)っていることになります。
で、生きているといいますのは、感情面だけでなく、思考面でも常に変化し続けているということであり、それはすなわち、内なる変化が、空気感の変化として現れてくることだと思うんですね。
身体の動きの変化が、生きているということを感じさせてくれるのではなく、
空気感の変化が、生きているということを感じさせてくれるのだと思うんです。
どうですか?
私は私が消えるように身体を動かしたいと思うんです。
身体が消えるように動きたいと思うんです。
私は生き物としてマイムをやりたいなと思うんです。