オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

人の言うことを聞くな!

他人からのアドバイスを聞いてはいけません!
もちろん、立派な先生の言うことでもです!



スポーツでもダンスでも身体を使うものでしたら何でも、


「ここはこうしたほうがいいよ。」


って、形やフォームの修正をアドバイスを受けますと、すごく動きづらくなりませんか?


にもかかわらず、


「そう、そう、そのほうがいいよ。」


って。



・・・本当にこんな動きづらい格好で動いているの?
これでは大変過ぎるぅう。。。


って思うと思うんですけど、いかがですか?



これはもちろん、まだ慣れていないからということがあるんでしょうけれど、その慣れていないというのは何でしょう?
それは、自分のものになっていないということですよね。
で、自分のものになったときといいますのは、決して動きづらいその「いいよ」って言われた時の動きのままではなく、若干変わっているはずですね。


そして、出来ている人の動きもわずかではありますけれど、人によって微妙な違いがあります。


となりますと、外側の目に見えるところを修正しようとすることは、正解が分りづらいということだと思いません?
誰のが正解なの???




ところで例えば、首の凝りの原因が腰にあったり、目にあったりする場合、首をいくらほぐしましても腰や目になんらかのアプローチをしませんと、すぐに首の凝りは戻ってきてしまいますね。


凝りに限らず、なんでも根本原因があるわけですから、その根本に辿り着くようにして初めて本当の解決が可能となるわけですよね。



スポーツでも表現でも同じでありまして、身体を動かすといいますのは、見た目としましては外側の問題かもしれませんけれど、形やフォームの修正といいますのは、外側をいじることではないはずなんです。


その形になるべくしてなってしまう、内側の感覚に結びつけること大事だと思うんですね。
外側を修正するといいますのは、頭の中の出来事であって、まだ身体の出来事ではないんです。


単に表面的に修正するのではなく、その修正を成功させるために、自分の中での他の部位との結びつきを探り当てる必要があるんです。


それは例えば、肩の位置を修正するのに、もしかしたら、腰を意識しないといけないかもしれないというようなことですね。
腰への力の入り方が悪くて、肩がそれをカバーするために良くない位置にいってしまっているかもしれませんよね。
そんな場合に、いくら肩の位置だけを修正しましても、なんの解決にもなりませんでしょ?


肩の位置を表面的に修正することは簡単です。
けれどそれは、頭の中の出来事。
この場合でしたら、腰への力の入り方を良くしてあげることができて、はじめて身体の出来事となるわけですね。


って、言葉だけ聞きますと簡単なことですけれど、実際にはこういったことに気が付くこと自体難しいんですよ。


それにいまの、腰への力の入り方を良くしてあげるってどうしたらいいの?
ってなりますでしょ?
筋肉に力をこめればいいわけではありませんものね。
股関節の位置が関係しているかもしれませんし、その周囲の筋肉の力発揮のバランスもあるでしょうし、それこそいろいろな要因がありますからね。



自分の身体の動きを他人に代わってもらうことは不可能です。
自分の内側の感覚を磨くことでしか、その外側に対応出来ないということなんです。



スポーツや表現に限らず、例えばダンベルなどを使ったフリーウェイトでの筋トレでも同じですよ。(マシーンでも同じでしょうけど・・・)


正しいフォームを取る際に、外側から修正を受けましても自分の身体が納得していない限りは、修正をしてくれる人がいなくなれば、すぐに元のフォームに戻ってしまいますでしょ。



つまりは、言われたこと(アドバイスされたこと)を、そのまま外側の修正のために受け入れることは、タブーなんです。


まぁ、言うことを聞くな!
ということですね。



けれど、これは修正を促す側にも問題があるんですね。


形やフォームを変えるのには、どんな感覚を使えば良いのかを、その受け手が分る範囲で選び出さなければいけないんです。
受け手の人にあったオーダーメードのアドバイスでなければいけないということですね。

ただ単にマニュアルのような言葉を並べましても、言っている内容に間違いはないかもしれませんけれど、正解には導いてくれないというものになってしまいます。


で、受け手の人にあったオーダーメードのアドバイスをするには、自分勝手な感覚を元にしたのではうまくいきませんね。
その受け手の人の感覚に寄り添うといいましょうか、なぜその人はその形、フォームになってしまうのかを、その人の身体(と意識)を自分の身体に取り込むこと必要があるんです。


ですから、、教える側に求められますのは、様々な感覚です。
同じ動きをするのに、どれだけ違った感覚でその動きを生み出せるか?という力ですね。
単に自分が出来るか出来ないかだけでは足らないんです。


むしろ、自分が出来ないものでありましても、その様々な感覚から、他人への指導がうまく出来るくらいでないと。ですね。


なんだか偉そうですけれど、これは私自身に向けての言葉でもありますね。



さて、教わる側も教える側も
外側ではなく、内側に目を向けることはほんとに大事なこと。


私たちは自分を生きているのであって、決して他の誰かを生きているわけではありませんでしょ?
外側の修正といいますのは、他人を生きるということと同じです。


自分の感覚に行けない、外側の修正にしか目が向けられない人ですと、
「これでいいですか?」
「これで合っていますか?」
って、不安で不安でたまらなくなるでしょうね。


他人に答えを求め過ぎてしまいます。
自分の中にしか答えは無いにもかかわらず・・・