オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

身体で演技をするために

内面を重視していきますと、身体は非常に扱いづらくなります。

内面と自分の身体・動きとの間に、大きな隔たりを感じてしまうんですね。



原因のひとつには、

内面は自由で、身体は不自由

ということがあります。



夢の中では、軽やかに美しく踊れても、実際には・・・
あぁ、自分のことなんて見たくないって感じてしまうかもしれません。

心の中では、ルンルンなのに、動きは・・・



身体運動表現ではなく、身体表現を志すならば、


この壁を乗り越えなくてはいけません。




さらに、踊りのような身体表現ではなく、
アートマイム、オーガニックマイムという


身体演技の場合は、ジェスチャー的な形においてさえ、


同様の壁を乗り越える必要があります。

(セリフを使う芝居でも、基本的には同じだと思います。)




少し前に、アートマイム、オーガニックマイムと舞踏や芝居との違いについて、お話をしましたね。


芝居は、内面のエネルギーと情報エネルギー(主にセリフ)の融合に注視。


(芝居は、内面のエネルギーがセリフにどれくらい乗っかっているかが大事ですよね?棒読みじゃあ困ります。)


舞踏は、内面のエネルギーと肉体のエネルギーの融合に注視。


アートマイム、オーガニックマイムは内面のエネルギーと肉体のエネルギーと情報エネルギー(身体)の融合に注視。






この身体によって情報エネルギーを発信するにあたり、
ジェスチャー的な動作・形は非常に重要になります。

必要不可欠なんですね。



ということは、どんなに内面を重視していったとしましても、

マイム…

踊りではなく演技であるためには、

ジェスチャー的な動作・形から逃れてはいけないということになります。




けれど、冒頭で述べましたように、内面を重視すれば重視するほど、
身体の動き、特にジェスチャー的な動作・形との間に、大きな隔たりを感じてしまう。
それは当然なんです。


むしろ、

感じない方が問題です。


感じないということは、よほど内面が貧困か、身体が鈍いか、その両方か・・・




だからといって、大きな隔たりという違和感に蓋をする、目を塞ぐようなことをしてはいけません。
向き合うことでしか、その壁は乗り越えられません。

そして、何よりも、乗り越えた先には、

想像もしていなかった素晴らしい世界、感覚が広がっています。




ということで、どうしたら乗り越えられるのか?


まず、技術的なことではなく、心構えですけれど、

演技ということは、見ている人に自分の発する情報エネルギーが、
間違われることのないように届く必要がある。

そのことを、きちんと認識する必要があります。


もし、文章を書くとして、
日本語になっていないような文章、あるいは宇宙人語(?)のようなオリジナルの言語で書いて、
解釈は読む人の自由です。
というスタンスではいけないということなんです。


もちろん、作品全体としては、その限りではありませんけれど
(必ずしも辻褄が合っている必要はありませんでしょ?)
動作ひとつひとつにおいては、明確である必要があるわけです。


それは、文章を書く際に、「てにをは」を含めて、どんな言葉を使うのか
が非常に重要なように、
あるいは、楽器演奏の際に、ドでもレでもいいなんてことはなく、どの音を出すのか
が重要であるように、
身体で演技する際は、
指先1本ですら、どのように語らせるのか
を重要視しなければいけないんです。


自分はこう感じているんだから、そう信じているんだから、ということで動いたり形を作っても、
それは通用しないということです。



あくまで、受け手あっての表現ということを忘れてはいけない。



自分の表現欲を露出するのではない。




極端な言い方をしますと、
表現したものが、自分が思ってもみなかったものとして解釈されたら、
その受け手の解釈の方が正しいんです。


自分としては悦びを表現していたつもりが、眠そうとか苦しそうと見えてしまうのなら、
それは悦びの表現ではないということ。


そういう意味で、自分の感覚を大事にし過ぎることは、危険なんですね。




この、

受け手の解釈こそが正解という中で、

どうしたら、自分の内面、感覚を大事にしていけるのか?





それは、ひと言で言ってしまいますと、


身体のエネルギーを自由に扱えるようになることです。




ジェスチャー的な動作・形であっても、

その意味に沿った身体エネルギーが注がれていれば、

決して自分にとっても受け手にとっても、嘘にはなりません。


むしろ、より真実に近づきます。





例えば、何かを指差すとして、どうして指で差すのでしょう?

それは、人間の身体、意識にとって、手、指というのは非常にエネルギーが流れやすい場所であり、
そこに流れるエネルギーを、示したいところまで伸ばしているということなんです。

三者は、それを感じているからこそ、
指差している人の指先を見るのではなく、その先を見ることになるんです。




で、こういった演技をする際、
ただ人差し指を立てる(伸ばす)だけですと、ジェスチャー度が高くなりますから、
内面重視をしている人には、違和感が強くなります。


かといって、指差しをせずに、
「私はエネルギーを送っています」と言ったところで、
受け手が感じ取れなければ、始まらない。



そこで、その違和感を無くすために、いや、むしろ、より良い指差しを実現するために、
全身のエネルギーの流れを指先を通して、その指し示したいところまで届けるようにするんです。


これは、何だか思い込むだけのように感じるかもしれませんけれど、そうではないんですね。

ここは重要なところです。



思いを強く持つことではありません。

身体的な技術です。



例えば、ボクシングや空手でのパンチ(突き)というのは、
当たるところの表面ではなく、その奥まで力が届くように打つんですね。
それと同じことなんです。前回の記事でお話したエネルギーの移動です。


本当に全身のエネルギーが指先(パンチの場合は拳)を通って、
指し示したいところ(当たる表面より奥)まで届ける。


それは、ただ人差し指を立てる(伸ばす)だけのものとは、
身体の状態が全く異なります。



そして、ここが肝心なのですが、
この身体の状態のとき、当然、内面(思い)の状態も変わってくるということなんです。




「思いを強く持つ」という感覚ではなく、


「強い思いを持っている」という感覚になります。




手先でしかパンチを打てない人は、
力強いエネルギーを放ちたいという、その思い、内面の状態に対して、
自分のパンチの力無さを感じます。

思いを強く持ったからといって、強いパンチが打てていないことは、身体が分かっているはずです。

(これを感じられるようになること自体、練習が必要だったりするのですが。。。)



もしそこで、パンチを打つのを諦めてしまい、けれど自分では強いパンチを打っているつもり、
となってしまいますと、それは今回ずっとお話している、
ジェスチャー的な動作・形から逃れている」状態になってしまうわけです。




ですから、指差しだけの問題ではなく、
あらゆる情報エネルギー発信のための動作・形を単なるジェスチャーにしないためには、
エネルギーの移動の質を高めるしかないのです。


それは、結局のところ、前回の記事でお話した、動きの練習として
「エネルギーの移動」と「身体動作の正しさ」の関係理解して身につけるということになるんです。



これが分かってくればくるほどに、
身体による情報エネルギー、ジェスチャー的な動作・形に違和感がなくなり、
自分にとっても、受け手にとっても、嘘がなくなる。
それどころか、より真実に近づく。


なぜなら、


内面だけでなく、身体も真実の状態に近づくから。


そういうことなんです。




身体演技の面白さは、ここにあります。



ジェスチャーはだれでもできますでしょ?
アートマイム、オーガニックマイムといえど、そこから始めればいいんです。

いきなり、今回のお話のようなことはできません。
ごっこ遊びとしてジェスチャーを使いながら楽しんで、その先に、こういった世界があるということ。



そういう意味で、アートマイム、オーガニックマイムは特殊なものではありません。

人間の原初的な行為です。



身体演技の面白さ、奥深さをそれぞれのペースで味わっていただけたらと思います。







表現者のための呼吸 
心と身体のワークショップ』





Body,Mind&Spirit 本当の自分の身体は天才だ!




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