オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

地平の向こうへ

パントマイムを見る時って、1つ1つの動きが何を表しているのだろう?と考えさせられてしまいますでしょ?


で、分らないことが多くなってきて、もうその作品全体に対する興味がどんどんしぼんでいってしまう・・・そんなことありません?



ところで、先日の試演会<JIDAI オーガニックマイムな夕べ>でのアンサンブルは、
『明け方に沈む太陽』
というタイトルからも、ある程度察しがつくかと思うんですけど、かなり実験的な作品だったんです。


この実験は、今年3月の舞夢踏(まいむとう)定期公演の時から始まっていまして、そこで自分なりに手応えを感じたものですから、思い切って今回の試演会でもトライしてみたんです。


(ただ、まぁ、舞夢踏公演での周囲の反応は、良いとは言えず・・・
いえ、むしろごく一部の人を除いてJIDAIさん、どうしちゃたの!?」という反応ばかりだったんですれけど・・・はぁ、、、)



マイム作品はどうしても見る人がストーリーの流れを解釈したくなりますよね。
ダンスを見るようには見れないですよね。


演じる側から提示出来る情報がお芝居に比べ極端に少ない状況の中で、何をやっているのか?を探るのに神経を使い果たしてしまい、つまり左脳ばかりを使ってしまい、右脳という感覚優位では見ていられなくなってしまうと思うんです。



けれど、私JIDAIは感覚優位の状態で見て欲しい、感じて欲しいと・・・


そこで、何とか見る人の思考をストップさせて、けれど、何かストーリー性を感じさせる・・・
そう、何かを掴めた気がするのに、それをしっかりと掴もうとすると、するっと手から逃げていってしまうような、


それは、例えば「私」って何?って考えた時の感覚。


「私」というものを考えれば考えるほど、「私」は無くなるのに、それでもそう考えているのは「私」であるという、あの言葉では言い切ることのできない感覚。



そんな感覚になってもらえれば、という作品づくりにトライしてるんです。



どうして、そんな感覚になって欲しいのか?


それは・・・心と頭と、その両方に強く残るであろうと思うから。


その感覚は宇宙につながると思うから。



「あなたは何ですか?」
と問われたら、そのショックの大きさはその場限りのものではなく、ずっとずっと長く続くと思うんです。
その問いは、あなたを日常から切り離し宇宙へと導く。にもかかわらず、日常とは切っても切り離せない。


そんな、日常から切り離す力を持ちながら、日常とは切っても切れない、問い、投げ掛け、作品。



JIDAI オーガニックマイムな夕べ>で初めてマイムに接した方はもちろん、マイム作品を見慣れている方でも、今回のアンサンブルには戸惑いを覚えたかもしれませんね。


けれど、私としましては舞夢踏公演の時以上に、より確かな手応えを感じていますし、観に来てくれていましたあるマイムアーティストは、しっかりと感じ取ってくれ非常に楽しんでくれていたようでして、それはとても心強く思いますね。


私は何も難しい作品をつくろうというのではなく、楽しんでもらいたいんです。
子どもでも楽しめるように。


実際、『明け方に沈む太陽』で子どもからも大人からも、笑い声が漏れるようなことがあったんですよ。



この路線、どこまで行けるのか皆目見当もつきませんけれど、まだしばらくはトライし続けたいですね。