自分とは何者でもなく、
自分以外の外の世界というものも、在るとか無いとかではなく、
ただ、自分が作るか作らないか
だと思うんです。
確かに外の世界には、目に見えるものも、耳に聞こえてくるものも、味も匂いもありますし、触れてくるものもあります。
けれど、それらは全て、私が反応した時に、生まれるもの。
他人が反応したからといって、私に生まれるわけではない。
分りやすい例えですと、他人が美味しいものを食べても、私は美味しくないですものね。
同じものに視線を向けているからといって、同じものを見ているわけではありませんし、
同じ音を耳にしていても、同じ音を聞けているわけではありませんでしょ。
けれど、もっとおおもとのお話としまして、例えばどんな音か?ではなく、音そのものですら、反応したから生まれるのだと思うんです。
外には何も無く、ただ反応が何かを生み出している。
(もちろん、無いということを想像することは、自分が在るという状態では不可能ですけれど・・・あぁ。。。)
そして、自分というのはただ、反応する存在。
ただ、ここでいう反応といいますのは、生命が生命であるための本能的な反射的な反応が出発点で、どんな色や形をしているか、それが好きか嫌いかといったこと以前の反応。
つまり、視神経が刺激を受けたといったようなレベルですね。
目に何かが映った、ということ。
パントマイムは何も無いところに、全てを生み出します。
どうやって、生み出すのか?
反応です。
反応するしかありません。
もし、風を生み出すのでしたら、風に反応しなければいけません。
それは、何も風に吹かれて前に進めないとか、そんなことではありませんで、
皮膚を空気が撫でていくであるとか、皮膚が空気に押されるであるとか、
空気の流れと圧力を感じなければいけないと思うんです。
そこに風の匂いを生み出すのなら、その反応。
それが嫌なのか、心地よいのかを生み出すのなら、さらにそういった反応。
どれだけいろいろなことに反応できるか?
頭の中で終ってしまうイメージではなく、身体が本当に反応するように。
そのためにも、鈍い身体の感性を磨いていかなくては・・・
パントマイムあるいはオーガニックマイムは非日常のものではなく、極めて日常です。
日常を顕微鏡で体験しているのです。
生命を体験していると言ったら、大袈裟でしょうか?