前々々回の短編アニメのお話の最後に、
「技術が世界観をビジュアル化するのだと思うんです」と申しましたけれど、
世界観を表現するということを少し考えてみたいと思います。
短編アニメをいろいろ見ていますと、まず飛び込んでくるのが、
その手法といいましょうか絵の描き方なんですよね。
詳しいことは分りませんけれど、水彩画やデッサン画が動く感じや、ガラス板に描いた油絵を少しずつずらすことで動かしたり、ビーズや砂で描いたり、まぁ、なんでもあるわけです。
(大抵、物凄い労力をつぎ込んでいます。信じられないくらいに、気の遠くなるような作業を何年にも渡って続けてやっと、ひと作品なんてものもあるようです。)
その手法は、やはりその手法でなければならないはずで、もっと簡単に同じものを作れる(今はコンピューターで何でも出来ますものね)からといって、そうしてしまったのでは、
似て非なるものになってしまい、それこそ、作者の世界観が出てこないと思うんです。
世界観というのは、観念的なものではないのでしょうね。
世界観なんていいますと、頭の中での考え方といったような、なんだか目に見えない抽象的な感じがしますけれど、
それを表すには、肉体的感覚に還元しませんと、伝わらないのだと思うようになりました。
言葉では表せない。
それは視覚(少し聴覚)を通して触感、温度感、時間感、空間感、重力感といったものと、感情感・・・ひっくるめて波動でしょうか?
そういった具体的な肉体的感覚が、世界観という抽象的なものを投げかけ、捕らえるのに、必要なんだろうなと思うんです。
ということは、すなわち描き方・手法といったものが、何より重要なわけで、作者が表したいと思っている世界観というのは、技術に左右されてしまうのかな?と思うんです。
いくら素晴らしい個性的な世界観を持っていたとしても、自分の持つ技術がマッチしていなければ、
観ている人に理解してもらうようなものは作れても、感じてはもらえない。
相手の頭には届くかもしれないけれど、言葉を超えたものとして身体には届かない。
それは果たして、世界観を表せたというのか?
そんな気がします。
そして、構成力。この構成というものも、世界観の肉体感覚化のためなんだと思うんです。
絵画や彫刻と違って、短編アニメやマイムなどの時間軸に乗せて表現されるものは、
上手に受け手の肉体感覚を変化させながら、飽きさせないように・・・
作者の世界観という海に引きずり込むために、
川の流れに乗せ、泳がせ、溺れさせ、大きな海へと・・・
その川も含めて、全体として1つの世界観を作り上げ、味わってもらわなければならない。
時間軸における構成(流れ)はとっても大事ですよね。
ところで、構成が良ければ、世界観なんて関係なく楽しく観れるのかもしれませんけれど、
私個人としましては、分っても分らなくても何かを感じたいほうですので、
構成が良いだけの観やすいものというのは、あまり興味が沸きません。
(これは、人それぞれですからね。私のような人間は、楽しく過ごすということがしづらいんです。)
作り手としましては、どうしたら自分の世界観に観客が身を委ねてくれるか?
技術は必要十分だろうか?
構成にスキはないだろうか?
常に自問自答しないといけないなと思います。
世界観を理解をしてもらうためではなく、たとえその場限りであっても、
共有してもらえるために。
そうしますと、作者の非常に個人的な世界観が、その時、
受け手である他人が自分にもその芽があることに気付く。
受け手は今まで気がつかなかった自分に出会える。
それはつまり、豊かになるってこと。
(話がそれますけど、経済の豊かさは無限の欲望によって成り立ち、こういった豊かさは無限の感性によって成り立つ・・・なのかしらね?)
受け手が豊かになる・・・そこまでのことを意図して作品をつくるわけではないですけれど、
そうなることが一番の幸せのような気がします。
マイムから心と身体の平和を
オーガニックな(生きた)カラダに http://jidai.mond.jp/