オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

形にとどまり、感覚を閉じる。。。

「分った」と思いたいのは、誰しもでしょうけれど、
「分った」と思ったとき、そこで終ってしまう。
そう思います。



良い姿勢の記事にいただいたコメントの「形にとどまる」理由ですけれど、
この「分った」と思いたい気持ちに負けてしまうのではないかと思います。



形は「分った」気になりやすい。


で、「分った」と思えたら楽ですものね。


もう何も考えなくて済みますから。



もちろん、私自身も「分った」と思いたいですし、姿勢に関しても動きに関しても、分ってきていると思えるからこそ、こうして偉そうに口にしているわけです。。。


けれど、それでもやはり「疑いたい」というか「疑う」気持ちはあります。


ですから、2年後に全く違うことを言っている可能性は否定出来ませんよね。
とはいいましても、これまでの経験からしてまして、そんなに大きく違わないだろうとも思っていますし、そうあって欲しいなぁ、と。




ところで先日、日本舞踊のお師匠さんに、こんなお話をうかがいました。
お弟子さんの多くが舞台女優で、皆さんお芝居に活かしたくて日本舞踊を習っているとのことなんですね。踊りが出来るようになりたいというのではないんです。所作を身につけたいということ。


ですけれど、10年やっても身につかない・・・


踊りの演目を踊っているときには出来る動き・形が、
お芝居など他の場面では出来ない・出せない。


どういうことだと思われます?



つまり、全ての動き・形を”演目と一対一の関係”でしか捉えていないんですね。
しかも、言い方は悪いですけけれど、上辺の形でしか身体が憶えていない。


ですから、演目を踊るとき以外の場面では、その形をとることに違和感が生じてしまうのでしょう。


しかしながらそれは、当然と言えば当然で、
その形は演目用のフリ(振り付け)でしかないのですから。



日本舞踊でなく普通の踊り(バレエでもジャズでも)でも、フリを踊ることが踊ることだと思っている人は、かなりいます。

フリがないと踊れない。。。

つまり、身体の中に踊りが無い。
(演奏や歌でも同じでしょう。)


こういうことと同じだと思います。
外側の動き・形を追いかけていますと、ある演目自体は上手に(何をもって上手というのかは別として)踊れるようになっても、他に応用ができない。



いえ、外側の動き・形を追いかけているつもりはないかもしれません。
けれど、教わった(演目にでてくる)動き・形を「分った」と思ってしまっているのだと思うんです。



本当に分っているのでしたら、いいんでしょうけれど、まだまだ分っていないはずなのに、「分った」と思ってしまっている。。。


それは言い換えますと、
本当には分ろうとしていない、ということではないでしょうか?


本当に分ろうと思えば、必ず「まだ分らない」と思うだろうと思うんです。
その辛さに耐えられないから「分った」として、探求することを止めてしまう。



あるいは、今「分った」としている形で、それなりの結果が出ていますと、
下手に「まだ分らない」と思って探求することで、結果が悪くなってしまうことを恐れているのかもしれません。
(それならば、何のために練習するの?? という気がしないでもないのですが・・・)



それとも、探求の仕方が分らないのかもしれませんね。
と言いますか、探求の方法が悪い(単に別の形を追い求めてしまう)のかも。



ハウツー本はもちろん、指導って大抵は、形で教えますし、
その形になってしまう体内感覚についての話がでてきませんからね。


確かに、指導する側は、形ではなく感覚を目覚めさせた上に、自覚的に再現出来るように導くって、至難の技ですし。
(私も、日々格闘です。。。)





・・・日本舞踊でもマイムでもバレエでも、ヨガでもピラティスでも武道でも、な~んでも、
形で教えてしまいますと、ほとんどの人は形を習ってしまいます。


まぁ、それは習いやすく、教えやすく、取っ付きやすいので、やる人が増え、裾野も広がりやすいとは思います。


あぁ、、、その点、オーガニックマイムは習いづらいだろうなぁ。。。
形を習うという気分には、させないですからねぇ。。。
頭で分ってもらうのはいいんですけど、身体が「分った」なんて、簡単に思うな!と思っていますからねぇ。。。
本当に自分のものとして、応用が全て含まれた本当の基礎として、身につけて欲しいと思っているものですから。。。
ちょっと芸を身につけたい、という人には向かないなぁ。。。(そういう人が来てくれて、こんな世界が!!って、はまってくれたら嬉しいんですけどね。)



あら、脱線してしまいましたぁ。




まぁ、「難しいなぁ」「分らないなぁ」と言いながらも、
意識の奥底では「分っている」と思ってしまっているのか、
あるいは、それ以上分ろうとはと思っていないのか。。。



形という目で見て分るものを、体内感覚より分りやすいと思ってしまうのは、無理からぬことだと思います。


「私」という言葉で「私」を分ってしまう感覚でしょうか?
私には、いまだに分らないのですけど・・・
(あぁ、また脱線。。。)



いずれにしましても、
「分った」と思うことは、感覚を閉じてしまうこと。



なんだか、まとまらず、すみません。。。このへんで。





マイムから心と身体の平和を


オーガニックな(生きた)カラダに  http://jidai.mond.jp/