お寿司の握り方を習ったとして、
それを技術として寿司という形を学んだのか、
それとも、
寿司がどういう美味しさを味わわせるためのものであるのかを学んだのかによって、
随分違うだろうなということを、
Twitterで口にしたんですけど、
例えば、後者の「どういう美味しさを味わわせるためのものであるのか」にしましても、
それが知識で終わってしまうようなら、それは評論家のお仕事ですから、
職人さんとしては、その美味しさを実現するだけの、握りの技術が必要なわけですよね。
つまり、一見、「技術として寿司という形を学ぶ」という前者と、
変わらないように見えると思うんですね。
一方、その前者にしましても、
その握りの技術が、本当に寿司を寿司足らしめるための技術として磨かれるには、
後者の「どういう美味しさを味わわせるためのものであるのか」
を抜きには考えられないと思うんです。
寿司の握り方を学びつつ、
「寿司とは何だ?」という疑問を持つ人と、持たない人とでは、
一見似たような寿司を握ったとしましても、全く違うものになると思うんですね。
こういうお話をしていきますと、
何だか疑問を持つ方が良いというように聞こえるかもしれませんけれど、
そうではありませんで、
特に大きな疑問を持たずにいけるということは、
それはその人の持っている答えが、世間一般と概ね似ているからこそでしょうから、
広く一般の方に受け入れられる可能性が高いわけです。
例えば、身体トレーニングも同じで、
世間一般の方と同じ身体観を持っている方が、当然多くの方に受け入れられやすいですよね。
一方、疑問を持ってしまう人は、世間一般の考え方から離れていく可能性が高く、
どうしようも無いものを生み出すかもしれないし、革新的なものを生み出すかもしれない。
どちらにしても、受け入れてくれる人の数は少なくなりがちです。
どちらが良いのかは分りません。
ただ、寿司でもトレーニングでも、私たちのような身体表現でも、
目に見える形がある以上、その形を学ぶ必要はあるわけです。
私は、その形に対して、
絶対的な信頼を持ちつつ、疑問を持ち続けることができたらいいんじゃないかなぁ、
と思うんです。
そういう意味で、「形じゃないんだよ」という、よく耳にするちょっとかっこいい言葉、
これはとても危険な言葉だと思うんですね。
最終的には形ではないのかもしれませんけど、
何かを身につけていくに当たって、よほどの天才でもない限り、
今の自分の技術をベースにして、そんなに大したことは出来ないと思うんです。
今の自分には無いもの、発想すら出来ないものを形を通して学んでいく。
それは、身体表現でいえば、振り付けのようなものではなく、
もっと根本的な身体観を、これまでの自分のものと組み替えていくことだと思うんです。
それは言い換えますと、思想の変換を求められるということなんです。
もし思想の変換を求められないようであれば、
それは現状の延長線上のものに取り組んでいることになりますから、
バリエーションが増えるといった感じの成果になると思うんですね。
こういったことを理解していただけると、嬉しいのですが、
私たちのいうアートマイムでは、身体観がとても重要なんです。
もちろん、形を通してお見せすることにはなりますけれど、
身体観抜きには考えられませんから、
マイムという一表現手段の中での位置づけというのは、あまり意味がないと思っているんです。
まぁ、その辺りのことはまた。