オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

北島マヤになろうとしていませんか?

唐突な質問ですが、


あなたは、普段の自分の言葉、動き、心を、

どれくらい意識、客観視していますか?



私は、以前あるダンスのワークショップのようなものを受けたとき、
振り付けとしてだと思うんですけど、「みなさん、普段通りに歩いて下さい。」と言われて、


???


だったんですね。


普段の歩きって何???



きっとこの先生は、誰もが普段は無意識で歩いていると思っているのだと思うんですね。


私には、普段の歩きといいましても、ひとつに決まっているわけではありません。
急ぎ足があるとか、そういったことではなく、無意識で歩くということは極めて少ないものですから、
どの歩きが、指示された普段通りの歩きになるのか分からないんですね。


この指示に疑問を持たずに出来てしまう人は
(まぁ、その時も皆さん、言われてさっと歩いていましたけれど・・・)、

何をもって(無意識のはずの)普段通りだと判断

していたのでしょう?





さて、ちょっと話がそれますけれど、
は読んで下さった方の反応が良かったんですけど、

はすごく悪かったんですね(笑)


「いいね」の数に


10倍の開きが!




同じことを言っているんですよ。




『エネルギーに巻き込むように』では、


観客をエネルギーに巻き込むことが大事で、
そのためには、「私」を消して、「私」を超え必要があると。


『本当の気持ち』では、


実生活で考える本当の気持ちは生まれるわけがないので、
もうひとつの本当の気持ちであるエネルギーに目を向けるのだと。



どちらも、普段の自分ではないことによって、エネルギーを使う必要があるということです。



にもかかわらず、こんなにも違うのは何故かなぁ?

と考えてみました。
それが、最初の歩きの話にもなるのですけど、
普段から、どのくらい自分のことを客観視しているか?が鍵になると思ったんです。




どうも、良い演技というのは、

実生活で考える本当の気持ちになることのように思われがちですね。

(で、『本当の気持ち』は反応がすごく悪かった 笑)




そして、それは無意識であることが良いということにつながってくる。


演技は、その人物(モノ)になりきることであり、
それは自分自身に対して無意識(無自覚)な状態が良いと。それが自然だと。


あの歩きと同じですね。
自分自身に対して無意識(無自覚)な状態が、その人の一番の自然だと思っているわけです。



けれど、そもそも、
普段の生活の中での自分の言葉、動き、心を、どれくらい意識、客観視しているか?
人それぞれ違うんですよね。



まず、この前提が全く異なるわけです。



あのダンスの先生は歩くことは無意識な自然なものだという決めつけがあったわけですけれど、
そんなことはないということですね。


自分が何を感じているのか?なども、
人によって意識できているかどうかは、かなりの差がありそうです。





このことで大きな誤解が生じているように思うんです。



どうも、演技でも身体でも、技術でコントロールするような話をしますと、
日常であまり意識的でない人の場合、自分を抑え込むような印象を持ってしまうようですね。



それは全くの誤解です。


本当に全くの誤解です。


むしろ、自由を得ることになるんです。




私のいう技術というのは、


無意識を極限まで減らすこと

が重要な要素になっています。

世阿弥のいう「離見の見」とでも言えばいいでしょうか?
それは、

身体の動きも、心の動きも、感覚の変化も、全てです。




無意識が多いということは、自分で自分が見えていないということで、
自分の身体に対しても心に対しても、目をつぶっているということです。


目をつぶることは自由な状態ではありませんでしょ?
(嫌なものを見ないで済んでいるので、自由であるかのような錯覚は起きます。)


無意識な状態が良いというのは、自分を見ない状態を良しとすることですから、
目をつぶることが良いことになります。


この状態での感情表現が、以前お話しました「エゴの感情」になるわけです。



意識的でない普段の気持ちを舞台で表そうということは、無理があります。



先のダンスでの歩きではないですが、どうやったら普段通りかどうかが分かるんでしょう?
普段が意識的でないから、意識的でない状態を作り出せばいいということでしょうか?




意識的でない状態を作り出す・・・完全に矛盾しています。


そういう一種、トランス状態に入ることが容易な人でしたら、分かりませんけれど、
一般的にはそんなことはあり得ないんです。



ガラスの仮面』の北島マヤになろうとしてはいけないんです。
北島マヤの良し悪しは別として、あれはなろうとしてなれるものではなく、
ああであるか、ないかです。)



普段の生活で自分の言葉、動き、心にほぼ無意識な場合、
舞台上で意識的に演技しようとすれば、当然ぎこちなくなります。
ですから、無意識を目指すことになるのかもしれませんけれど、
それは今言いましたように、そもそも矛盾した行為なんです。



さらに言えることは、そこで目指す無意識が達成出来たとして、
それはその人の「普段」なわけです。それを目指していたわけですから。
ということは、


「普段以上」の世界は表現出来ないことになります。


等身大の表現といったら、聞こえはいいかもしれませんけれど、ごく狭い世界しか表現できません。


普段、そんなに激情的に生きているのでしょうか?
そんなに深い闇に落ちたり這い上がったりしているのでしょうか?
人を何とも思わずに殺したり、マリア様のような慈悲深い行動をとっているのでしょうか?





先日の公開レッスンで行なった「悩む」も、私の見本は等身大の「悩む」ではありませんでした。
参加したクラス生は、その等身大ではない演技をしようと頑張ってくれていました。



この演技を身につけていくにあたって、鍵になるのが意識的ということになります。
無意識を減らすことでもあります。



自分自身に対する無意識(それは心に対しても身体に対しても)を極力減らしていくことで、
普遍的な感情というエネルギーをキャッチ出来るようにもなります。



それを利用した演技の訓練を積んでいけば、舞台上で自然に見えるんです。

普段の自然とは違う、舞台映えのする自然です。

(動きの大きさは関係ありません。)




大雑把な言い方かもしれませんが、

普段の自然、等身大の演技は引き込む力を持っているように思います。

エゴの強い演技は押しが強い。

普遍的な感情というエネルギーの演技は、巻き込む力を持ちます。



あの公開レッスンをご覧になられた方は、思い出してみて下さい。
どの人にどんな印象を持ったか?



さて、またまた長くなりました。。。



どんな表現を目指すのか?









Body,Mind&Spirit 本当の自分の身体は天才だ!




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