私は個性なんて大事にしません!
・・・なぁ~んて言うと、こんな人のところでは習いたくな~いっ!
って、なってしまいそうですよね。。。
一般的に、伝統的なものは個性を否定することから始まり、現代的なものは個性を尊重するところから始まると思うんです。
それぞれ一長一短はあるでしょうから、その善し悪しを説くつもりはありませんけれど、
個性を否定するところから始まる伝統的なもので、本当に個性が抹殺された状態になるのか?
と言えば、そんなことはなく、
個性を尊重することから始まる現代的なもので、かえって無個性なものになってしまったりもするわけで・・・
私はクラスでは出来る限り本質的なところ、つまり内なるエネルギーと身体の関係を伝えたいと思っています。
で、本質とはすなわち万人に共通のことでありまして、おのずと似たような動きになります。
特にマイムの場合、スポーツではなく表現ですから、どう見えるかということも非常に重要。
自分がこう伝わっていて欲しいというものが、きちんと間違い無く伝わっていて欲しいですよね。
ですから、ますます似たような動きになります。
そういう意味では伝統芸的かもしれませんね。
けれど、それは型にはめ込んでぎちぎちにするといったものではなく、むしろ全く逆なんですね。
今どきのよくあるワークショップのように技術の習得とは無関係に、
個性を活かす(?)といいましょうか、何か今のそのままの自分の中に何かを発見するといったアプローチではなく、
ある種の型を使うことで今まで無かった自分を増築するような感じだと思うんです。
あるいは、体や心の中でこれまで通っていなかった回路を、外からの型・技術で修復するといったこともあるでしょう。
結果、これまでよりもずっと幅広く、快適で自由な体と心(すなわち表現力)を手に入れることになるのだと。
楽しいワークショップに対しまして、出来なさばかりを感じざるを得ない技術の習得といいますのは、
個性にしがみつきたい人にとっては、苦痛になるかもしれませんけれど、
一旦個性を消すことで得られるものの大きさは、計りしれないのですよ。
それは、出来ないことを個性だからなんていう言葉でごまかすことを、安易にしてはいけないということでもあります。
なんとなくの技術を身に付けて自由に個性を活かしたい人には、私のクラスは大変かもしれません。
ですけれど、本質的なところを身に付けていけますと、
一見似たような動きである分、逆にクセではない本当の個性が際立ってくるのではないかと思うんですよ。
ぱっと見て分かる個性ではなく、内面の個性とでもいいましょうか。
伝統的なものでの個性の表れ方と同じかな?と。
こんな個性の表れ方、今どきではないのかもしれませんけど、いかがですか?