「解釈は自由なんです。」
パントマイムに接していて、こんな言葉を耳にすることがあると思うんですけど、いかがですか?
自由という言葉が、何かとても大事な大きな価値のように扱われていますけれど、
どうなんでしょうねぇ・・・。
ここには2つの問題があると思うんですけど、ひとつずつお話を進めていきますね。
まずひとつめ。
もともとどんな解釈をされようと、それが作品の本質的なことではないものに対して、ことさら解釈の自由を謳っている場合があります。
例えば、花が出てくるとしまして、それがチューリップかコスモスか、バラか?何色なのか?
といったようなことは、通常、作品の本質からしますと、
どうでもいいことなんです。
作品の本質にかかわらない枝葉末節のところで、解釈の自由を謳い、
「チューリップでもバラでも好きな花を思い浮かべて下さい。あなたの自由なんです。パントマイムってすばらしいでしょっ!」
というイメージを与えようとするのは、いいこととは思えません。
どうでもいいポイントは、どうでもいいんです。
自由ということとは違うと思うんですよ。
そして、ふたつめ。
例えば、コスモスであること、あるいはバラであることが重要であったとして、
それを伝えられずに、それでも
「どんな花かは、観る人の自由なんですよ。」
では困るわけで、
それは表現力が足りない、表現方法が適切でないことを、
素直に受け止めていただかなくてはと思うんです。
そういったことが重要なポイントになるようでしたら、それこそ何か絶対に分からせるためのことをする必要がありますでしょ?
これは、具体的なモノを表す場合に限らず、どんな気持ちなのか?どんな状況・空間なのか?
といったことでも、同じこと。
自分が表そうとしているにもかかわらず、伝えられなかったのならば、自分の技量不足を考えるべきで、
自由という言葉の下に、
「あなたの見方は間違っていませんよ。そういう見方もあっていいんです。」
というのは、どうかと思ってしまうんですよね。
とは言いましても、何も全てが具体的であるべきだ!抽象的なものはダメ~ッ!
ということではないですよ。
ただ、マイムは踊りと違い、ほぼ芝居です。
お芝居でのセリフが何を言っているのか聞き取れない、どんな感情が込められているのか分からない、という状態を、
「観ている人の自由な解釈で」
なんていうことは、あり得ませんでしょ?
もちろんお芝居でもマイムでも、作品全体に対する解釈の自由はあるわけで、
むしろ、その自由のためにこそ、ひとつひとつのポイントはきちんと伝えなくていけないのではないかしら?
ということなんです。
「パントマイム」と「自由」という言葉をセットで扱うことは、非常に危険なんですよ。