マイムの練習といいますと、はずせないものに、分解運動というのがあるんです。
マイムをされている方にとっては、当たり前の練習内容ですけど、普通には馴染みのない体の動かし方ですよね。
胴体は動かさずに、顔(頭)だけを右に左にスライドさせたり、胸だけをスライドさせたり・・・初心者が必ずやらされる、基本中の基本みたいなもの。
けれど、これ、重要なんでしょうか?
何も知らない初心者は、これが大事だと言われれば、そうかぁ、と思うほかなく、一生懸命練習することになりますけど、どうなんでしょうね?
人間の体はいろいろなパーツが集まって出来ているわけではありませんでしょ?
組み立て模型ではないですよね?
パーツが集まって1つのものになっているのではなく、1つのものに、いくつものパーツらしきものがあるんだと思うんです・・・
ですから、分解運動の練習によって、体を1つのものでなくしてしまうことは、非人間的な、有機体としての命ある生物としての体ではなく、機械的な体を作ることになってしまうのではないかしら?
むか~し昔ですけど、言われたことがあります。
「どうして、パントマイムの人はみんな、人形みたいに動くの?」って。
その当時の私は、その言葉の真意が読み取れませんで、
「何を言っているの?人形をやっているとき以外は、普通に動いていますよ。」と思っていたんですけど、今は、よく分かります。
簡単にいいますと、
動きが不自然。
この不自然さは、何も分解運動だけのせいではありませんけど、やはり影響は大きいと思うんですよね。
(この不自然さが悪いというのではありませんよ。それはそれで面白いですから、私も大好き。)
分解運動の練習によって得られた、たくさんのパーツ、これらをそのまま、パーツとして使って(動かして)しまいますと、非人間的。
人間的な動きにするには、何が重要か?と言いますと、
繋がり。
パーツどうしの繋がりこそが大切でありまして、人間社会と同様に、1人1人の人間が重要なのではなく、あくまでその繋がりが、社会を動かしているように、パーツどうしのスムーズな繋がりが、体全体を動かす力となるわけです。
流れです。
社会なら個人、体ならパーツが、上手に繋がることで、流れが生じ、社会でも体でも全体が機能する。
繋がりの悪い所は、流れが悪くなり、社会でも体でもですけど、全体から見た場合に不自然さ・問題が生じてしまいますね。
で、体の場合、繋がりといいますの、単に隣同士の関節だけの問題でありません。全てが繋がっているわけですから、手を動かせば、足も動くといったことになるんです。
パントマイムは西洋のものですから、医学と同様、どこか人間の体をパーツの集合体としてしまうところがあります。
東洋医学のように、まず全体ありきという姿勢は大事な気がするんです。
ということで、ここのところ、分解運動を重要な練習と考えてしまうことに、ちょっと疑問を感じ始めております。