オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

自分の意識を認識してしまったがために

大抵の人は、自分に意識があるって、意識できますでしょ?
思いますに、自分の意識を認識してしまうかどうかは、人間が他の生き物と、決定的に違う要素なのではないんでしょうか?・・・当たり前ですか?

だいぶ前に「神とは集合意識である」ということを書きましたけど、それと、この間の『「細胞と人間」と「私と神」』のお話とを、足して考えてみました。

細胞の意識がたくさん集まって出来た、集合意識が、すなわち私たち人間の意識だとします。
細胞からしますと、その集合意識は神であり、つまり細胞にとっての神は、私たち人間なわけです。
けれど、たとえ意識があっても、自分の意識すら認識できないものが、集合意識だけは認識できるなんて、あり得るわけもなく、要するに、自分たちの集合意識である人間の意識を認識できない。

つまり、細胞にとって人間は神でありながら、神として認識できないため、神ではないともいえる。細胞には神は存在しない。細胞には神というものを考えられないわけです。

細胞に限らず、自分の意識を認識できない生き物、つまり人間以外の生き物にとっても、同じこと。神を認識することはできない。
まあ、だからこそ、集合意識という神に対して素直に、生きられるんでしょうね。本能のままに。

で、一方、人間は自分の意識を認識できるため、自分たちの集合意識を、認識してしまったんですね。神として。

但し、集合意識としての神は、よくいう宗教的な意味合いでの神ではありませんで、宇宙という言葉で置き換えられるような、何か大きな存在であり、それは、人間があくまで直観的に分かる、自分を生かしている「何か」であるわけですけど、いずれにしましても、人間がこの地球上に誕生して初めて、神が誕生したとも言える。
人間が神を作った、と。

そして、その神を、どう認識するかと言いますと、人間が自分を認識するように、認識するんです。当然ですよね?自分を認識できることで、神を認識できるようになったわけで、それ以上でも、それ以下でもない。
つまり、自分に対する認識の仕方が、そのまま神に対する認識の仕方になるということです。

ここで、大きな問題が生じることになるんですよ、おそらく。
本来、神というのは、あくまで自分を生かしている「何か」であって、この「何か」以上でも以下でもない、はずなんですけど、人間が自分を認識するように、この「何か」を認識してしまうがために、神が人格を持って(持たせて)しまったんだと。

これが、いわゆる宗教が示す神の姿になってしまうんですね。
「何か」のままでは、耐えられず、といって、「何か」を何かと考え続けることにも、耐えられず・・・あぁ、そして、いろいろな神が・・・