もし私たちの体の細胞1つ1つに、私たちと同じような意識があったら、私とその細胞との関係はどうなるんでしょうね?
私はその全ての細胞を、どこまで、どうやって認識するんでしょう?
細胞から見ると、私は何になるんでしょう?
この関係は、神と人間の関係と同じだと、思いません?
細胞は、その全体である私という人間を、神と名付ける。
細胞は、その神の一部でありながら、実感は出来ない。
或いは、神を認めないかもしれません。何せ、見ようがないですしね。
場合によっては、自分が属する小さな全体に当たる、たとえば肝臓とかを、神と名付けて、他の細胞はまた、肺を神と名付けて、といった具合に、たくさんの神を想定するかもしれませんね。
全体である私、つまり神から見ますと、細胞は、自分を構成している「しもべ」のようでありながら、何をコントロール出来るというのか?って感じですね。
支配しているのか?支配されているのか?
普段の自分の生活を考えますと、いちいち細胞たちに、いや、肝臓にも肺にも、特別な指示はしていませんよね。自由にやってもらっています。
といって、細胞たちは自由を感じているんでしょうか?
もし1つ1つの細胞が、それぞれ自分の自由を最大限使おうとしますと、どうなるんでしょう?どうも、全体としては不具合を起こしそうです。
そして、全体である私に不具合があることは、当然、あってはならないことなので、病院やら何やらで、治療して元に戻そうとしますけど、細胞からしますと、いい迷惑ですよね。せっかく自由を満喫しようとしていたところを、全体である私からの制止を受けるわけですから。
「自由を返せ~っ!」ですね。
さあ、全体である私は、自分で生きているんでしょうか?細胞によって生かされているんでしょうか?
細胞は何のために生きているんでしょうか?私のために生きているんでしょうか?私と関係なく、細胞自身のために生きているんでしょうか?
私が細胞を作っているんでしょうか?
細胞が私を作っているんでしょうか?
私は、1つ1つの細胞とは違いますけど、その1つ1つの細胞が私でないと、言えるのでしょうか?
と、まあ、こんな風に考えますと、神と人間の関係が面白くなってきますね。
「さあ、」の後の「私」を神に、「細胞」を人間に置き換えますと、よ~く見えてきます。
さあ、全体である神は、自分で生きているんでしょうか?人間によって生かされているんでしょうか?
人間は何のために生きているんでしょうか?神のために生きているんでしょうか?神と関係なく、人間自身のために生きているんでしょうか?
神が人間を作っているんでしょうか?
人間が神を作っているんでしょうか?
神は、1つ1つの人間とは違いますけど、その1つ1つの人間が神でないと、言えるのでしょうか?
あぁ、絶句。