オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

自分を知ろうとする。知れてくる。

瞑想をすることはいいことだって、いいますでしょ。
たとえちょっとの時間でも、呼吸を整えて、周りの雑音を消し、静かに自分の中に入っていく。
瞑想とまでいかないにしましても、自分ひとりの時間を持つことは、やはり大切なことって、大抵は思っていると思うんです。

で、一時期、いえ、今もそうかもしれませんけど、「自分探し」とか「ほんとの自分」とか、そういう類いのキーワードが、世に溢れて・・・。
これって、どうなんでしょう?

私は非常に強い、違和感を覚えてしまうんですよね。
なんだか「今の自分」を否定し、「別の自分」を探すような・・・仮に今の自分を否定している気はないにしましても、どこか別の所に、自分の外に、自分を見つけようとしているような気がするんです。それも、都合のいい、理想に近い自分を。

そもそも、自分を知るためには、自分のことが分からない、ということが出発点のはずです。それは決して、自分の外に何か別の自分を見ることではなく、あくまで、自分自身を見つめることでしかないと思うんですけど・・・。

やはり瞑想に戻りますね。けれど、やはりこれは簡単ではないですよね。
瞑想好きなら、難しいことはないんでしょうけど、瞑想が上手く出来ているのかどうか、分かりづらいですし、一人っきりの時間と場所をつくることも、大変。日々続けるとなりますと、精神力もいりそうです。
ひとりっきりの戦い、といったところでしょうか。瞑想以外にいい方法はないんでしょうか?

ところで、「自分を知る」といった時に、何を知れば、自分を知ったことになるんでしょう?

自分というのは、心でしょうか?確かに心を持っています。
自分というのは、肉体でしょうか?確かに肉体を持っています。
自分というのは、考える精神でしょうか?確かに精神を持っています。

自分というのは、心だけでもなければ、肉体だけでもなく、もちろん精神だけでもない。そう、その全てとしか、言いようがない。

なおかつ、「知る」ということは、言葉以前の感覚だと思うんです。「よく分からないけど、分かった!」のような。何か深い所で掴んだ気がする、その感覚。
言葉は、それを自分にも、他人にも分からせようと、何とか表現しようとしたものに過ぎず、その感覚を表わしきれるものではない。

まあ、とにもかくにも、「自分を知る」というのは、心も肉体も精神も、それら全てを言葉以前の深い所で掴む、ということ。
そう、掴めないんですけどね。自分が分からないんですよね。そのことは、よく分かる・・・あぁ・・・

それでも、知ろうとする。
私はマイムによって、知ろうとするんです。正確には、知ろうとする、といいますか、マイムによって知れてくる、ですね。
言葉以前を表現するために、生み出されたマイムによって、知れてくる。
心、精神を、肉体で表現するマイムによって、知れてくる。


人に伝わって、はじめて意味を成すマイムが、自分の為にあるんです。
外への目線が、自分への目線として帰ってくるマイム。
自分への目線が、外への目線に現れるマイム。あぁ。