さあ!前回からの続きですよ。
「気持ちと身体は、思った以上にばらばら」
について、考えてみましょう。
たとえば「嬉しい」でありますとか「喜び」といった気持ち、
普段どう表れていますでしょうか?
ほんとに喜んでいるにもかかわらず、
人から「あんまり嬉しそうにみえないね。」ってこと、ありません?
もちろん、わざと気持ちを抑えているってこともあるでしょうけど、
「素直に気持ちを出してもいいんだよ。」と言われても、
結局たいして変わらなかったりしますでしょ?
(わざとらしくなるか、どちらかですよね。)
逆に、「いつも楽しそうだよね。」って、
本当はちょっと元気がないのに、言われてしまう人もいますよね。
どうしてなんでしょうね?
他者と自分の区別の無い赤ちゃんですと、気持ちがそのまま身体に表れますけど、
徐々に、気持ちとは違う行動、
例えば、欲しいのに欲しくない素振りをしたりなんてことをするようになっていきますでしょ?
そうしているうちに、つまり気持ちと身体を自ら、ばらばらに使っているうちに、
本当に気持ちと身体が一致しなくなってしまうんでしょうね。
気持ちを身体全体で表すことをしなくなっていきますと、身体が気持ちを感じなくなってしまうんです。
どんどん、鈍くなってしまうんですね。
使わないものは、錆び付いていきます。
そしてやがては、気持ちというのは脳が生み出すもので、身体は関係無いのだ!
なんて思うようになってしまうんですよね。
ですから、気持ちを表すといっても、せいぜい顔の表情を変えることくらいしか思いつかないわけです。
(そのうち、顔も使えなくなって、いつでも同じ表情ということになってしまい・・・あぁぁ。。。)
で、この変な思い込み、脳が気持ちを生み出すなんて思い込みが、
例えば演技指導の際の「もっと気持ちを込めて!」「思いを強く!」
という言葉に表れてきてしまうのだと思うんです。
もちろん、脳も使わないといけないでしょうけど、
身体を無視して(使わずに)気持ちをどうにかしようとすることが、どんなに愚かなことか・・・
よかったら試してみて下さい。
伸びをしながら大きなあくびをしている時、悲しい気持ちになれます?
もし、なれるという人がいましたら、その方は残念ながら
ご自分の身体の変化に気が付けていないのだと思いますよ。
ただ純粋に大きなあくびをしているとき、悲しい気持ちになることは、絶対に不可能です。
では、試しにもうひとつ。
手を握りしめ、目もぎゅっとつぶって、全身にぎゅぅっと力を入れて縮まってみて下さい。
これ以上力入れられませ~ぇんっ!っていうくらいにですよ。
その状態で、愛のあたたかさを感じようとしてみましょう。
・・・不可能ですよね?
感じようとすれば、どうしたって力が弛んでしまうはずです。
これは極端な例ですけど、例えば、身体ががちがちに固まった人が、ほんわかした優しさを表すことが、
どれほど難しいかは、分かると思うんです。
脳だけで気持ちを作れるなんて、それこそ妄想です。
このように本来、気持ちと身体は密接につながっているはずなんですけど、
社会生活を営む上で、私たちは自らその関係を壊すように生きていますから、
社会に溶け込もうとすればするほど、気持ちと身体の乖離が大きくなってしまうんでしょうね。
ただし、気を付けて下さい!
社会に溶け込めない人は気持ちと身体をうまく繋がっている、
なんて言っているわけではありませんよ。
社会に溶け込めない人にもいろいろなタイプがあるのでしょうけど、
「我」が強すぎるということですと、そういう人の気持ちと身体は、得てしてばらばらです。
(偏りがある、といった方がいいかもしれません。)
なにしろ「我」って、それこそ脳の産物でしょ?
いずれにしましても、人間社会で生きていくということが、イコール気持ちと身体をばらばらに扱う技術を学んでいくこととも言えるわけで、
それも、ほぼ無自覚に・・・
そこへ持ってきて、気持ちが脳だけで生み出されるものだと思っていますと、ばらばらの度合いがどれだけ大きくなることか・・・!
感度の鈍くなった身体を、立て直す必要がありそうですね。