「散らし書き」
って、ご存知ですか?
昔、散らし書きを初めて目にした時、
(初めて意識に上った時)
あんなにテキトーそうな
「てろりん」とした
不思議な書き方なのに
どこか法則性を感じさせて、
そこはかとなく美しいのは、
何故なんだろう?
と思ったんですね。
ただ、恥ずかしながら、
「散らし書き」という呼び名は
このシリーズの考察をしている中で、
検索して初めて知った次第です。
さて、
西洋の言葉が強弱のリズムで
自然とラップになるのに対して、
日本の言葉は、
落下する身体から生まれるために
(5・7・5のような)
「なだらかな上昇(あるいは下降)⇄空白」
そのため、
音の無い時間が生じる。
平坦で静かな感じ。
だからこそ、日本では
間(ま)を活かせるかどうかが、
重要になるのであろうと、
このシリーズの初回で
お話しましたけれど、
ふと、「散らし書き」のことを思い出しまして、
和歌の「散らし書き」は
この日本語の身体性を
目に見える形にしたものなのではないか?
と思ったんです。
(散らし書きは日本独特のものらしいですね。)
日本語は、
強弱というリズムよりも
「なだらかな上昇(あるいは下降)⇄空白」という
メロディーの言葉。
これを絵的に表すと、
(もちろん、縦書きですから、まっすぐではなく)
散らし書きになりますよね。
そして、当然ですけれど、
「余白の美」が重要になります。
間(ま)を活かせるかどうか?ですものね。
いずれにしましても、
「なだらかなライン」と「空白」
の関係です。
この、
ぶつからない感じ、
流れていく感じ、
そして、
空白、
それも、何も無いのではなく、
豊かな満ちた空白。
ちょっとお話、それますけれど、
鹿威し(ししおどし)にも、
似たものが感じられます。
竹筒にちょろちょろと水が溜まっていき、
コーンと音が鳴る。
ちょろちょろが
なだらかな上昇で、
その頂点でコーン!とも取れますし、
コーンの響きが消えていく様が
なだらかな下降で、
次のコーンまでが余白とも取れます。
鹿威しは、音を聞いていながら、
静寂を味わうもの。
水琴窟も、似てますね。
そう考えますと、
散らし書きは、なんだか
水琴窟の音のリズムを
(波紋の広がり方)
取り入れてるようにも感じられますね。
落下する身体にとって、
空白は、間(ま)という
活きた時間・空間であってほしい。
和歌は、ただ言葉上の意味だけでなく、
「散らし書き」によって
より一層、心に深く届くようになっているのでしょうね。
「跳ねる」「落下」の考察から、
思いがけず、
「散らし書き」の不思議さを、
分かった気がして
嬉しく思っているのでした。