前回のお話の続きです。
私もご多聞に漏れず、多くの日本人と同じように正確好きです。
それは良い意味に働きますと、先生の教えや動きを自分勝手に解釈せずに、ただひたすら丸ごと受け入れるということになります。
「守破離」の「守」の能力になるということかと思います。
けれど、けれど・・・
私は自分の師であるテリーさんから学び始めた初期の頃は、いつも自分の練習(教わったエチュード、ちょっとした演技)を撮影しては確認していたんです。
表現系でなくても自分の動きを映像で見たことのある人は、皆さん同じ経験があるかと思うんですけど、私も漏れなく映像を見ては、ガッカリしてました。ガッカリというより、ショック。。。
「なにこれ・・・」「こんななの・・・?」
まるっきり、自分の中のイメージと違うんですよね。
テリーさんの見本からは遠くかけ離れた、どうにもならない動き。。。
稽古を積んで、いくらか良くなったのではないかと思っていても、映像は冷ややかに現実を見せつけてくる。。。
正確にと思い取り組み、それほど間違ってはいないし、かなり正確にやってはいても、正確かもしれないけれど、全く別物。ひと言で言いますと、動きが硬いんです。
柔らかく動こうとしてはいても、硬い。。。
(一般的には、この硬さをなくすために脱力が重視されるんですけど、脱力することでは得られない柔らかさがあるんです。)
このまま繰り返し練習していても、こなれるだけだったと思います。
ただ私は同時に、ベースの身体づくりとして武術やスポーツの動作、力の出し方を研究していました。
武術やスポーツの研究によって、力を抜いてパワーを出すこと、連動性という、主にこの二つを理解・習得していった感じです。(この二つのことを一括りに、「内側」としてお話を続けます。)
これは、見た目の正確さを意識するのではなく、内側の動きの正確さを重視するという言い方が出来るかもしれません。
あるいは、見た目は、内側の動きの結果であるから、見た目に意識を持っていかれないようにしつつも(見た目を合わせに行くのではなく)、見た目という結果を蔑ろにしない。
で、いつの頃からか、練習映像も撮らなくなり、必要があって演技映像を撮ることがあっても、それなりにいけていると思えるようになっていたんです。
(もちろん、そんなにすぐにということではありませんよ。)
正確好きといえど、見た目を手本に合わせに行ってしまいますと、よほどの才能の持ち主でない限りは、ただ外見上のモノマネ芸に過ぎなくなってしまいます。
このような形での正確さは、「守破離」の「守」にはなり得ません。
(どの世界でも、この手の正確さで師匠から離れて自分が指導者となる人は一定数いるかと思います。)
「守」の難しさですね。
ところで、私は武術やスポーツの研究をしてきて、武術の方がスポーツよりも、ある意味でより重要な土台になっているのですけど、武術だけではダメなんです。
私の解釈では、武術は、点だけが存在するような世界。
スッ。サッ。というような、気配がないままに、何か事を為して、何事も無かったかのように元に戻っている。
つまり、途中が無い世界なんです。
一方、スポーツは(ピッチングなど)最大限の力を発揮するための準備(タメ)が許されることが多いこともあり、途中がしっかり存在していて構わない世界。
動きのエネルギーで言いますと、「うねり」パワーが見える世界。
武術という、点あるいは直線の世界と、スポーツの曲線・曲面の世界と、どちらが人間の内面の動き・流れを表現するのに合っているか?
明らかに、スポーツです。
武術は非人間的な感じを表現するのに向いています。
(ゆえに、表現としてどちらも重要ではあります。)
今回のお話の途中で、「脱力することでは得られない柔らかさがある」と言いましたけれど、スポーツでの「うねりパワー」が、それに当たります。
正確好きの和の(和的な)身体で脱力してしまいますと、「うねり」を出そうとしても「くねくね」になってしまうんです。そこで、脱力での別方向での活かし方として、「キレ」を出すという方向で鍛えることになるのかもしれません。
さて、前回は踊りのお話でした。踊りは、どうしても振付を学んでしまいがちで、ベースの身体づくりをしましても、今現状の身体の延長線上になってしまいます。
正確好きだとしても、見えるところと見えないところ、どのところでの正解を求めるのかによって変わってくるように思います。
「スゴい!」踊りを目指すのか?「カッコイイ!」踊りを目指すのか?
身体づくりをどうするか?に目を向けてみては?と思います。