「自分を表現しよう!」
って危険です・・・危険すぎる・・と思うんです。。。
パントマイムのワークショップを例にお話を進めますけれど、「自分」って、何なんでしょうね???
ひと言でいいますと、こういうところでいう「自分」は
すなわち「我(が)」
だと思ってしまうんです。
パントマイムのワークショップでよくありますのが、何故なんでしょう?(何故ってこともないんですけど・・・)
「ピエロになってみよう!」
・・・はぁ、、なんだかとっても残念です。。。
とまぁ、そのことは、ここではいいとしまして、、、
ピエロという形を借りることで、普段は隠れている、或いは押し殺している「自分」を出してみよう!
といったところでしょうか。。。
けれど、ピエロでなくとも、何か演じるというようなこういった場面で出てくるものは、ほぼ
「普段の自分」の延長。
普段の自分にあるものを、大袈裟に表に出しているだけ、といったことになりかねないと思うのです。
もし仮に、「普段は大人しいから、逆に元気にいってみよう」のように、敢えて普段の自分とは全く違う感じを出してみようとしたとしまして、
それは本当に隠されていた自分なんでしょうか?
これが成立するとなりますと、「普段は明るくて元気だから、暗くじめぇ~って感じでいってみよう」として演じれば、
それがすなわち自分を表現しよう!の自分になるということになってしまいますけど、
どうもおかしくありません?
以前、私の師であるテリ-さんが講師を勤めました子供向けのワークショップで、印象に残った女の子がいたんですね。
子供向けでしたから、当然、わーわー、がやがやとしていまして、
まぁ、みんなで綱引きのまねごとでもしようとなったんです。
左右に15人ずつくらいに分かれまして、やっていたんですけど、みんなそれはそれは、いい加減で、、、
ただ綱引きごっこを楽しんで(ふざけて)いるだけだったんです。
そんな中で、その女の子は、ただひとり、本当に真剣に夢中に、周りの雑音が全く届いていないかのように、
テリ-さんの動きを漏らさずやってみようとしていたんです。
その子だけ、別の空間にいるような感じでした。
大勢のがちゃがちゃした中にいるはずなんですけど、そこだけ浮かび上がっている感じでした。
(よくいう、そこだけ光っていた・・・)
小学校3、4年生くらいの子だったでしょうか?7~8年前だと思うんですけど、その光景、その子の表情は今でもはっきりと憶えています。
私はこれこそが、「自分を表現していた」ということだと思うんです。
(本当の自分かどうかとは、別ですけど。それはまたいずれ・・・)
自分を表現しよう!と思いながら出てくる自分というものは、
その人が認識できる自分の範囲を超えませんから、それはやはり、普段の自分・・・
そうではなく、自分なんていうものを出そうとしないところにこそ、自分が出てくるのだと思うんです。
で、結果、その人が光を帯びるわけで、自分から光を出そうとしましても、それは
我(が)光線~~~~
個性が重視される世の中ですから、「自分を表現しよう!」に、つい引き寄せられてしまうのでしょうけど、
気を付けませんと我(が)を強めることになってしまうんではないかなぁ。。。
私も心していきませんとね。