表現というものは、自分を出そうとしなくとも、自分が出てしまうもののようですね。
先だって行われていましたパントマイム公演のフェスティバルで、私の知人の終演後の第一声は
「パントマイムをちゃんと観たのは初めてだったけれど、恐いですね・・・その人が全部見えてしまうんですね。」
彼も表現ということを自らしていますから、より強く感じ取ったのでしょうね。
普通ですと、こういったことは、何とな~くは感じ取っていましても、意識に上ってくることはほぼ無いんですよね。
もしかすると、パントマイムという分野が好きで観に来たわけではないぶん、
そういったことが、余計に見えてきたのかもしれません。
さて、「その人が見えてしまう」・・・
パントマイムに限った話ではないんですけれど、パントマイムの場合は特に強いかもしれないな、と。
と言いますのは、パントマイムといいますのは、たいていソロで演じ、その本人が作・演出もするわけでして、
まぁ、そのことは、例えばソロダンスでも、同じかもしれませんけれど、
パントマイムの場合は具体的なお話みたいなものが、演じられますから、そのテーマや表現方法が観ている人には、
ダンスに比べて分かりやすいと思うんです。
テーマの選択、音楽の選択から表現している時の雰囲気まで、全てにおいてその人が現れてきやすいのでしょう。
経験年数ではありませんね。
上手い下手とか、面白い面白くないとか、そういったことでもないですね。
ただ、現れる・見えてくると言いましても、受け手があってのことですから、
そこのところが見えるかどうかは、見る人に委ねられてしまいますよね。
演者の人間というところをどう感じるかは、本当にその人の見方次第ですから、
同じもの・人を観ましても、全く違った感想になるわけです。
どんな人にどんな自分が見えてしまうのか?
自分を表現することなんて考えなくとも、出てしまう・・・あぁ、、恐ろしいぃぃ。。。