オーガニックマイムJIDAI の「身体」「表現」考

オーガニックな身体の使い方、表現についてのいろいろ。時々、甘いもの。

体の「教養」

私の生活の中では、恥ずかしながら「教養」という言葉はほぼ縁がないんですけど、

「実用」と「教養」ということについて考えてみました。


体操のようなものに対して


「これは何にいいんですか?」


という質問がありますけれど、これは明らかに実用性に目が向いているわけですよね。


実用というのは、役に立つか立たないか?が全てでしょうから、

たとえその時はよく分らなくても、役に立つらしい、役に立つはずだと思えれば、
その体操を一生懸命やる意味がでると思うんです。


そのかわり、役に立つのかどうかがよく分らない場合は、それこそ何のためにやるの?

ということで、一気にモチベーションは下がってしまいますよね。



ところで、今の時代は小学生といった子どもの時から、

社会に出て役に立つことを教えなければいけない、ということで、
英語で会話が出来るようにとか、経済関係の投資やら何やらなど
学ばせようとしているようですよね。


けれど、生活に必要であれば実生活、経験から学ぶでしょうし、

それは嫌でも学ばざるを得なかったりするわけです。
反対に、必要無ければ、学ぶ必要も無いと思うんですね。

学校、義務教育というのは、実用的なものを教えることも大切でしょうけれど、

社会に出ていないからこそ出来る学びがあると思うんです。
それが、教養かな?と思うんですけど・・・



いずれにしましても、役に立つ立たないというのは、

今現状の生活の想像のつく範囲で判断しているわけで、
体のことに話を戻しますと、例えば、「姿勢が悪いから筋力を付けましょう」というのは、
想像のつく範囲だから、「そうね。じゃぁ、がんばらなきゃ。」となるわけです。

「姿勢なんて悪くたっていいのよ。」という人には、

筋力をつけるなんてどうでもいいことになるんですけど、
それも、今現状から想像のつく範囲で判断しているわけです。




一方、「教養」といいますのは、

今現状で考え得る生活では直接役立たないかもしないけれど、
何か行き詰まった時などに、現状の延長線上では考えられないような視点によって、
打開していく力となったり、あるいは、
もっと純粋に、生きるとは何か?人間とは?宇宙とは?といった、
生活ではなく人生を豊かにするようなものだと思うんですね。


もちろん、教養がそのまま実生活で役に立つこともあるとは思いますよ。

けれどそれは、実用というものがその意味の有る無しの判断基準に、

実生活に役に立つか立たないという損得勘定がある一方で、
教養はそういうことではないですよね。



私は体のことも、この「実用」と「教養」というものがあるんじゃないかと思ったんですね。


一般的に、体のことは実用性だけが問題になっているように感じるんですね。


何かをやったら、痩せるとか体幹が強くなるとか、柔軟性が上がるとか。


もう少し分りやすく言いますと、何かをやったら何か実用性のあるものが得られるという、

11みたいな関係で捉えているんだと思うんです。



けれど、何が得られるのかはよく分らないけれど、

何か将来役に立つかもしれないし、
役に立つことが無かったとしても、
本質に触れている気がするといったような感覚で、体と付き合っていく・・・
つまり「体の教養」として学ぶということがあってもいいんじゃないかと思うんです。


知識ではありませんよ。


きっと「体の教養」というのは、ただ楽しいとか気持ちいいとか、ふしぎ~!といったような、

頭でっかちではなく、感覚優位な付き合い方なのかな?とは思うんです。



実用性でしか捉えていませんと、広がりはしないと思うんですね。

「この運動はこれこれのため」といったような、誰かに言われた狭い範囲のものでしかなく、

ですから、いろいろなもの、いろいろなパターンを教えてもらわなければいけないし、
思わぬ分野で役に立ったりという発展性も生まれてこない。



教養であれば、思わぬところで、「あっ!これって、あれじゃない!!」のように、

よく分らずやっていた運動が、全く考えもしていなかったところで、
つながったりする可能性がある。

それは、ある意味、その人の中で学んだものが勝手に発酵したようななものだと思うんです。

このとき、その運動は完全にその人のものになったわけですよね。

誰かからの借り物ではなくなったということですよね。




教養というのは、実用という面から見ますと、無駄だらけだと思うんです。


おそらく私の身体トレーニングも、いわゆるパントマイムという観点で見ますと、

無駄なことだらけだと思います。

それがパントマイムの何に役に立つの?ということばかりだと思うんですね。



もちろん、私は役に立つと思っているからやっているんですけど、

それは実用性という意味での役に立つ立たないということではなく、教養なんですね。

ですから、役に立つと思っていると言いながら、

何に役に立つのかは正直分っていなかったりするわけです。


じゃぁ、何に役に立つのか分っていないことを教えているのか?となると思うんですけど、

先ほど、教養というのは無駄だらけだと言いましたけれど、
実際のところは、私の体の教養は何も無駄にはなっていない、という変な確信もあるんです。


それは、生徒さんたちもそれぞれそういう感覚があるんですね。

(少なくとも残っている人たちは、そうだと思うんです。

何年かしてから「あぁ、このことかぁ!!」と目を輝かせる生徒さんが多いですから、
間違いないと思います。)


もちろん、そんな生徒さんも始めからそのつもりで、

教養を身につけようというつもりで通い始めたわけではなく、
実用性を求めてやって来た人が多いとは思うんですけど、
きっと教養の面白さに目覚めたんでしょうね。



何だか話がまとまらなくなってきましたね。。。


最後になかば強引に、ひと言でまとめますと、



「実用」はブラッシュアップにはなるでしょうけれど、


「実用」ではブレイクスルーは出来ない。


ブレイクスルーには「教養」が必要。


体に教養を!





【もう間もなく

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