いきなり厳しい言い様ですけれど、
量が質になると思っているうちは、まず質になることはないんじゃないかと思うんですね。
量をこなしているときというのは、肉体は疲れるでしょうけれど、
神経は疲れていないと思うんです。
つまり、感覚を閉じて繰り返しているに過ぎない。
もちろん、ある時期にはそういった量も必要かもしれませんけれど、
少なくともそれで質を養おうとするのは、無理があるということなんです。
特にランナーをはじめ、スポーツ系の方々は気を付けませんと、
質を上げる練習ではなく、感覚を閉じて肉体を酷使する練習をしてしまいがち。
「じゃぁ、とりあえず1キロ走りましょう」
「○○を何回、何セットやりましょう」
といった、繰り返しを要求するものって、よほどのモチベーションがありませんと、
感覚を開いて質を上げるための練習になることはないと思うんです。
例えば、1キロ走るでも歩くでも、神経を使い続けたなら、
もしかしたらあっという間かもしれませんけど、
人によってはとても続かないような時間だと思うんですよ。
肉体より神経が疲労してしまいます。
神経を使うことに馴れないうちは、特にあっという間に嫌になっちゃうでしょうね。
「めんどくさ~いっ!!」って。
けれど、質が高いってどういうことか?
それは、精度が高い、緻密、細かいということだと思うんですね。
ね?
どう考えましても、一般的に面倒くさい類いのことだと思いません?
その面倒くさいことをせずに、量をこなすというのは、
例えば、肉体が痛みを感じても、それを無視する力を養うようなことにつながりかねないわけです。
(意識的にそいうった訓練をしているのでしたら、それはいいんです。)
これは型や形あるもの、決まったポーズをとるようなものでも、同じこと。
傍目にはいくら肉体を使っているように見えても、
本人は神経の方こそ働かせて、自分の身体を観察し続け、微調整しつづけなければ、
何も変わっていきません。
毎日、箸を使っていて、5年前と比べて上手になっています?
毎日、多少なりとも歩いていて、上手になっています?
そんなこと、ありませんよね。。。
新しい動きを習ったりしますと、少なくともしばらくは神経を使いますけれど、
馴れてしまえば、必要以上に神経は使わなくなります。
箸も歩きも、ある時点で寝ていても出来るくらいになってしまってるわけで、
なんでもそうなんでですよね。また、そうでなければ、困ります。
歩きながら会話したり、景色を楽しんだりが出来ないですものね(笑)
まぁ、それでも携帯なんかを扱いながら歩いていますと、
歩く速度が遅~くなってしまっていますよね。
歩きへの神経の働きが弱まってしまうんですね。
なんだか、お話が逸れてしまいそうですね。。。
あっ、でもついでに。
歩きながら携帯を見たり?き込んだりしている時、
決して歩きの速度を落とさないようにしてみて下さい。
これだけでも、随分と神経の働き方、身体の使い方が変わってきますよ。
さて、本題に戻りましょう。
肉体より神経が疲れるようでなければ、質は上がってこない。
では、その神経を使うってどういうことか?感覚を開くってどういうことか?
私がお勧めするのは、身体の内部の視覚化です。
特に骨格の視覚化。
そして、視覚化された骨格を動かしながら、その時々の筋肉の状態を観察するんです。
それを、良いと考えられる動き方で行なっていくんですね。
現状の良くない動き方で行なってもいいですけれど、
質を上げようというわけですから、実際に良い動き方かどうかは別として、
とにかく実験する感じですね。
馴れて来たら、その精度を上げていく。
つまり、骨のどこを力が通るのか?関節の繋がり具合はどうなっているのか?
あるいは、同時に注意する箇所を増やしていく。(厳密には同時では無理なんですけど・・・)
そうそう、筋肉の状態の観察と言いましたけれど、
可能であれば実際に触ってみるといいですよ。
例えば、両方の太ももの裏側を触ったまま歩いてみる。そして筋肉の動きを感じてみる。
そうやって、感じているだけでもいいんですけど、
同じ速度を保ちながら、筋肉をもっと使わないでもいけるかなぁ?
と試してみて、その時に他のどこを使うようになったかを感じてみるなど。
こういった神経の使い方って、集中力を養うのにも最適ですよ。
ヴィパッサナー瞑想と共通するものがあると思うんですよね。
とにかく、ある程度出来るものを繰り返し行なうようなことは、
悪いクセを固定化していく行為でもありますから、
変に量をこなそうとか回数を気にしたりというのではなく、
質に目を向けてみてはどうでしょうか?
神経が疲れてこそのトレーニング。
【もう間もなく!】
『INICJACJE ~あるポーランド人マイムからのインスパイア~ 』