少し前にSNSで挙げた内容を、まずは紹介。
ではなぜ、
実は、元々は、体が自分を生かし続けるために、
つまり、
この「わたし」は、過去にあったことも覚えておいたほうが、
まるで、過去からずっと継続して、同一であるかのように、設定されている。
一方、生物的には弱い人間の体を永続させるために、
「わたし」という抽象的存在の方が、
元々は体から生み出された「わたし」であったものが、
と、考えても悪くはないと思うんですね。
少なくとも、舞台上では、この考え方に基づいたほうがいい。
もし、
体ででしか伝えられないんです。
「”わたし”は借り物」
表現欲求の強い人は、どうしても自分の表現に対して発信することばかりに、
これは、整体師でもカウンセラーでも、セラピストといわれるような人が、
もともと、表現欲が強いからこそ表現の場に立つのでしょうし、
けれど、これでは、上手くいかない。
押しつけだからです。
本人は押しつけているつもりはないかもしれませんが、受け手はそう感じているんです。
それが、発信ばかりに意識が向いてしまっているということなんですね。
表現の場では、しかしながら、
自分の体でしか表現できないわけですから、
先ほども言いましたが、表現欲求の強い人はどうしても「”体”は借り物」になってしまい、
こう考えてみては、どうでしょう?
表現したい世界は「わたし」の世界観を大事にし、
そうすれば、
もし、
ですが、落ち込む必要はありません。
まだ、あなたの世界観が浮かび上がってきていないだけで、
技術には、必ず特有の視点が内包されています。
その視点が助けになるはずです。
(『その技術には、どんな視点がありますか?』をご覧下さい。)
技術自体にとっては、「わたし」は邪魔になります。
けれど、技術あって初めて「わたし」の世界観を提示できる。
表現欲の無い方も、このような形で技術習得をしていきますと、
「”わたし”は借り物」とすることで、
面白いですよね。
アートマイム、オーガニックマイムをそんな形で楽しんでもらえるのも、
何しろ、私自身がそうだから。