哀しい・・
苦しい・・
楽しい・・
いくら自分が
感情を入れて
弾いてみても
音には表れない
だから余計に
必至で音に
反映させようと
自分の感情ばかり
盛り上げて・・
感情過多になって
弾いている演奏家は
ごまんといるがね
私からすると
見苦しいだけだ
自分の身体を使って表現する者だれにでも、言えることではないでしょうか?
私がいつも言っていることでもあります。
これは意図・気持ちは見えるけれど、表現は見えてこないということ。
表現者でなくとも、スポーツでも、例えば、ランニングでも同じ。
一生懸命速く走ろうとすることと、走れていることとは、別のこと。
『ピアノの森』 この場面の続き。
もちろん
技術がなければ
お話にならない
しかし
技術だけでは
どこまでいっても
技術だけだよ
行きつくところ
技術的に難曲と
言われる曲を
目指すしかない
そりゃあ褒められるだろう
けど・・・・
そんなものは
自動演奏でも
できることだ
で・・
では
どうすれば
その曲に必要な
”音の質”が出せるの
ですか?
うーん
しいて言えば
自分の音をよく
聴くこと・・かな
そんな
ことなら
・・・・
できてる?
はい
そうかな
自分の音を
客観的に聴くことが
できるなんて
正直僕は ほとんどの
ピアニストができていない
と思ってる
表現者の陥りやすい大きな間違いも、これ。
自分のやろうとしていることに気持ちを働かせ過ぎてしまい、
やっている、出来ている(結果として現れている)ことに、気持ちが向いていない。
向いている気になっているだけで、色眼鏡で見ていることに気がつけていない。
やろうとしていることを知って見ているために、
客観度が低くなり、知らず知らず修正して見てしまう。
自分を自分で見るということの難しさですね。
声や音は、歌っているとき、セリフを言っているとき、演奏しているとき、
自分の声、音はリアルタイムで自分の耳に入ってきます。
けれど、身体表現の場合、それは叶いません。(鏡越しでは全く意味がありません)
自分を見ることができない。
余計に、客観的になりづらい。
『ピアノの森』この場面の最後の言葉。
ピアノは
叩けば誰にでも
音が出せる楽器だ
だからこそ
本当にその曲に必要な
質の音を出すのは
大変なこと・・・・
これは、身体表現者にとっては、極めて重要なこと。
身体表現というのは、物体としてのカラダの能力として何ができるか?
は、もちろん大事ですけど、
動きの質感や、佇まい、状態といった、
精神性や内面と相まった動きを生み出せるようにならなければ、
表現は深まりません。
表現に豊かさが生まれません。
私たちの身体も、ピアノが誰にでも音が出せるのと同じように、誰でも動かせます。動けます。
それだけに、動きの質というものに厳しく目を向けたいものです。
そして何より、「その曲に必要な質」というように、
その表現に必要な質の動きであるかどうかに、目を向けたい。
4月24日 『四足歩行から二足歩行へ』
(動物から学ぶ無理のない動き)
5月1日 『声(音)を身体に響かせる〜自分の内を外へ広げる』
Body,Mind&Spirit
本当の自分の身体は天才だ!