「動きの解体新書」連載開始
第1回「エネルギーは身体のすきまを流れる」
公演
8月3日(金) 21時〜22時
『マイミクロスコープ
〜夜のアートマイム劇場〜』
新作『崩滅』
前回に引き続き、冒頭は宣伝でした。
ここから、今回のお話です。
動き、身体の使い方を学ぶ際の
イメージと言葉の力について
考えてみたいと思います。
イメージといいますのは、
映像的なものがメインで、
擬音などもこの範疇。
言葉といいますのは、
本格的な解剖学、物理学にのっとった説明、
あるいは、
イメージに近いけれど、
解剖学的な感じの説明。
(軸、丹田などはこの例)
大雑把にいいますと、
イメージは全体像を捉えやすい。
言葉は順序だてながら部分の理解がしやすい。
身体を動かす際、
全身の協調性、連動性が何より重要ですから、
イメージは大きな力になりますね。
一方、上手く動けない人は、
言葉に囚われてしまい、
身体よりも頭が働いてしまっているんです。
けれど、
イメージで動いていますと、
精度が高まりません。
全体の感じは良くても、
身体の各部位の動きや、その繋がりが
粗っぽいままだったりするんです。
それは、元々のその人の身体の使い方の範囲での
動きのままだからですね。
ですから、言葉の力で
部分をクローズアップする必要がある。
言葉で部分の捉え方の精度を上げ、
それを、再びイメージや擬音でまとめ上げる。
これを循環させるんです。
イメージ頼りで身体を扱っている人は、
言葉に対する適応力が足りず、
言葉頼りの人は、
イメージへの移行を恐れる。
(言葉から離れること、理解から離れることを恐れる。)
そんな傾向を感じます。
自分の得意なほうは活かしつつ、
反対からのアプローチも出来るようになれると、
いいですね。
|