しばしば、舞台表現の人が言います。
「分かろうとするより、感じて欲しい」
まぁ、そりゃぁそうですけど、
これ、
私は良くないと思うんです。
表現する側が言うのは
いかがなものかと。
先日、お能に関する本を読んでいましたら、
ある能楽師の方が、
やはりこう言っていました。
なんだか、お能のような高尚なところから
こう言われると、
何も言えなくなりそうですけど…
それでも思うのです。
例えば、お能は
セリフがあります。
歌(謡)も当然、歌詞があります。
ナレーションの役割に当たる地謡があります。
お話の筋がきちんとあります。
つまり、
言葉が伝わっていることを前提として
作られているんです。
言葉を使わない踊りであっても
同じことだと思うんですけど、
それは
感じられるようには作られていますか?
ということなんです。
ここは、ナーバス、センシティブなところです。
作り手がどのように作っていようと、
受け手はそれぞれ勝手に感じます。
そこは、作り手側はタッチできない領域です。
例えば、アウトサイダーアート。
受け手はいろいろ感じますけど、
基本的に、作り手は受け手のことは想定していません。
だからこそ、アウトサイダーアートです。
(だと私は考えています。)
けれど、多くの表現は
受け手をどこかで想定しています。
でなければ、自ら発表しません。
であるならば、その受け手に対して、
どうアプローチするか?
があるはずです。
それが、
感じられるように作っているか?
ということになります。
もし、そのアプローチをおざなりにしていたなら、
感じて欲しいというのは、無責任だと思うのです。
言葉が伝わっていることを前提に作られたものを、
言葉は分からなくていい、感じてくれというのも、
やはり同じこと。
特に、クラシカルなものは
受け手がすでに内容を知っていて、
その上で、
誰が、どう演じるか?どんな演奏をするか?
といった楽しみ方をするようになっています。
教養のあることが前提なんです。
いけないわけではありませんが、
「分かっている」ことを前提として
楽しみ方、見方があるわけです。
(これを、「感じる」といっていいのかという疑問は残ります。)
ひとは自分の中にないボキャブラリーで
感じることはできません。
例えば、唐突ですけど
「苺のパスタ」
一般的な日本人にとっては
なかなか美味しいと感じるのは難しいと思います。
いろいろな料理人の味を、何度か経験していくうちに、
美味しいものとそうでないものの違いが分かるようになり、
さらに、どう美味しいのか?そうでないのか?といったことも
分かるようになり、
つまり、何を味わったらいいのかが分かるようになり、
そうやって、ようやく
「感じられる」ようになるのではないかと思うのです。
「分かる」ことから
「感じる」が生まれるのだと思うのです。
感じ方が人それぞれなのは、
分かっているものが、違うからです。
表現作品の見方を知らないが故に、
感じる以前の問題になってしまうのです。
感じるためには、見方、作品の文法を知る必要があるのです。
「感じて欲しい」
と安易には言えないと思うのです。
但し、言えないながらも
表現する側として
「よくは分からないけれど、深く響きました」
と言ってもらえることは
大事です。
それを、要求するのはどうか?
ということですね。